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学会にもいない個人アカウントだけの力で、歴史「推し」人物ジャンルが焼け野原や荒れ地になったのか?

概要

 これは、私のtwitterアカウントに関連して何度かtwitterや2ちゃんねる・5ちゃんねるで書き込まれたことに関する内容です。

 つまりは、「私(まめ)の力によって、ネット上の中国史において強い支持を受けていた「推し」人物ジャンルが焼け野原や荒れ地になってしまった」といった趣旨の書き込みがtwitterや2ちゃんねる・5ちゃんねるに何度か書き込まれています。

 なお、その人たちがなぜ、「私(まめ)の力によって、中国史にかんする「推し」人物ジャンルが焼け野原や荒れ地になる」と考えるのか、具体的な内容までは聞くことができていません。そのtwitterアカウントにたずねても、私には具体的な回答は行ってはくれないでしょう。

 このことが真実なら、私が行ったことの是非はともかく、私の影響力は、ネット上の中国史関係において大きな話題となった部分に強い影響を与えたことになりますから、アルファツイッタラー以上の影響力があった可能性すらあります。

 私自身も最近までは「まさか。ただ単に私を非難したいがために大げさに書いているんだろう」とは思っていたのですが、私の影響力を否定したい一面もあるであろう彼らの言うことですし、改めて調べてみるとあながちあり得ない話でもないと感じました。

「中国史にかんする「推し」人物ジャンルが焼け野原や荒れ地になった」とは?

 「私(まめ)の力によって、中国史にかんする「推し」人物ジャンルが焼け野原や荒れ地になった」はどういう意味か、具体的に書きますと、私のtwitterアカウントにおいて、よく、光武帝(姓名は劉秀。後漢王朝の創始者。倭国に黄金の印鑑を与えたことで知られる)と慕容恪(三国志の後の時代、五胡十六時代の名将)に関するネットにおける人物「推し」に対して、批判したことを原因とするものです。

 それゆえに、その光武帝や慕容恪に関する人物「推し」が成立できないようになり、語られることがほとんどなくなった、そして、そういった種類の歴史人物「推し」そのものが語られにくくなった、という意味です。

そもそも、なぜ、私は批判し続けたのか

 なぜ、私が批判したかというと、いくつか理由があります。

 一つには、この光武帝と慕容恪の関するネット上の推しが余りに世間一般の正史研究や学術研究、歴史的評価と乖離したものであったこと。

 二つは、そういった「推し」は、歴史書をこの二人の能力や存在感、歴史的役割が高く、大きくなるようにできるだけ独自解釈が行われ、それがまるで学説以上に筋の通った意見であるような扱いを受け、匿名掲示板を中心として、個人ブログにまで普及しているように感じられたこと。

 三つに、さらにそういったことが、かえってネットで中国史を楽しんでいる人々にネットの会話に近づけないようにさせ、中国史全体の人気低下まで招いていると感じたからです。

 こういった人物「推し」のあり方は、三つの意味で私は問題があると今でも考えています。

 一つ目は、こういった解釈を行うことで、全く学説と異なった解釈論で歴史解釈が可能であり、それが誰でもできると勘違いすること。光武帝が特に激しいのですが、「推し」解釈のために、ネット上では、光武帝の批判や低評価につながる史書や学説は全て光武帝を嫌う歴史家の「粉飾」であるという、まことに光武帝の「推し」だけに都合のいい解釈がなされています。

 二つ目は、その解釈がネット上で普及しているために、その解釈は伝統ある歴史解釈や学説よりはるかに筋が通ったものと思われていました。そのために、伝統ある歴史解釈や学説が歴史家の粉飾にだまされた価値が低いものであるという見方をなされていることが往々にしてありました。

 三つ目は、この「推し」は、光武帝や慕容恪が同時代・他の時代・他の地域の人物より、優れているという結論にいきつきます。彼らは瑕疵がない、あらゆることに優秀な能力を有し、絶大な人望を得ている人物という理由で「推し」を得ています。こうなると、同時代の人物は彼らと明らかに劣るということになり、さらに、伝統的な歴史評価はただの誤りとなった上、時代比較の人物評価ですら、彼らが自動的に最上位となるわけです。そうすると、「推し」の評価を受けて、「歴史の真実を知った」推し人物のファンにより、同時代はもちろん、他の時代・他の地域の人物への優位性の主張がはじまります。それにより、知識マウントや彼らの「推し」を推すようという押し付けがはじまるのです。時代や地域すら超越して優れているのですから、その「推し」は別の時代や別の地域の歴史人物への会話に加わった上の、知識マウントや押し付けが可能です。

 しかも、「推し」は「アンチ」とは違い、好きな歴史人物を熱狂的に推しているだけに見えるため、「推し」を批判することは、ただの嫉妬、いやがらせ、そのジャンルの活力を奪うこと、歴史マニアの堅苦しい「正しい歴史」の押し付け、とみられやすいです。

避けられていたネット上の中国史界隈における「推し」人物批判

 実際にかなり中国史に詳しいと思えるサイト・ブログの運営主ですら、当たり前の学説による光武帝の評価は避けているように見えました。twitterで私が研究者に「あの光武帝評価はおかしいのではないか」と、たずねても、何人かしか、まともに回答をしていただけませんでした。

 私も別に、光武帝に関するネットの独説について批判するために仲間に加わって欲しいと言っているわけではありません。だから、研究者がそのような独説や「推し」を相手にする必要はないという意見は分かります。

 しかし、なぜ、ネットの独説に対して、「基本的な学説はこうである」とは言えなかったのでしょうか? 一体、学問とは何のためにあるでしょうか? 私には分からなくなりました。

 「光武帝」や「慕容恪」に関する「推し」はネットの中国史界隈では、私が批判するまでかなり有力だったのですが、ネット上の中国史は低迷する一方でした。私はネット上の中国史人気が低迷したのは、上記の理由により、恣意的な独説が好きなように語られた上で、学説が語れなくなり、会話が一方的となり、「推し」による知識マウント・押し付けが増大し、項羽・劉邦・三国志の人物・李世民など比較的有名で人気がある人物が彼らの引き立て役とされ、不快に思った人たちが去ったゆえと思いました。

 中国史に関しては私は、あくまで、趣味の話で、史学どころか、文学部出身でもありません。とはいえ、私は自分の考えが間違っていないと信じました。

中国史の「推し」人物ジャンル批判を行う

 かつて、2(5)ちゃんねる、他の匿名掲示板でそのような「推し」による人物の押し付けをされたり、そういった「推し」人物や歴史解釈を批判した時に放送禁止用語を用いての罵りや煽りを受けたことがあったこともあり、どうしても疑問や納得できないものを抱えていました。

 また、自分が調べた内容がどれだけ筋道が立っているか、そのような「推し」による独説が本当に説得力があるのか、私自身がその「推し」独説を擁護する歴史好きの人たちよりも歴史理解が進んでいると考えているのが思い込みではないか、確認したい意図もあって、そういった「推し」を批判しました。

 その「推し」批判のために、学説にほとんど触れることがないただの歴史好きだった私が専門書や論文を読んでまとめた結果がこちらです。

 全て私がtogetterでまとめたものです。

なお、アンチ関係の批判も行ったことがあります。こちらはネットの独説ではなく、古い学説や講談小説が発祥ですが。

 本来なら、ほとんど影響力はなかったでしょう。私のアカウントはフォロワーの数も5年で500人足らずと普通ですし、RTやいいねは、かつては見返してみてもびっくりするぐらい0が続いていました(笑)

意外な影響

 しかし、このtogetterまとめのPVがそれなりに多かったことに驚き、自己弁護と火消しを考えたのか、twitterにおいて中国史界隈でそれなりに有名なアカウントや2(5)ちゃんねるで、私の非難や悪口(批判といえるほどのものは余りないように感じました)が書き込まれ、そのため、かえって、私の批判が有名になりました。

 これは中国史や三国志関係で実際に会って行われるオフ会や勉強会でも私の非難や悪口が繰り返されていたということも聞いています。

 私のこの批判に対して、私に対して正面きって批判した方もいましたが、それは歴史的な解釈の正しさではなく、『「推し」をつぶすのは歴史好きの方の同意を得られない。そんなことしても、歴史人気には良い影響は与えない』という意味でした。ただ、最後はその方にも私の批判をある程度は認めていただき、同意される方も増えたこともあって、特に、私に反論する人も正面からはいなくなりました。

 それから3~4年が経過して、光武帝のネット独説による「推し」はtwitterや匿名掲示板では余り見かけなくなり、慕容恪については、どこでもほとんど見かけなくなりました。

 私の個人的な人格に対する非難はともかく、理論上では私の意見に対する具体的に説得力のある反論は読んだことがありませんから、どうしても「推し」をしたい人々を除いた、元々は「推し」に行っていた方々からも私の批判の趣旨について、ある程度の理解を得られたものと考えてはいます。

 また、twitterも含めて、匿名掲示板において、そういった過剰な「推し」がされにくくなっているようになったのかも、というのは感じます。「私(まめ)の力によって、中国史にかんする「推し」が焼け野原や荒れ地になった」ことはある意味では事実かもしれません。

 本当に焼け野原や荒れ地にしてしまったのか?

 結局、私の取り組みは成果をあげたのでしょうか? 実は、よく分かりません(笑)。

 「まめ(私)に影響されたから、そういった会話をやめました」、「まめの方が正しいと思う」とは彼らは書かないでしょう。もちろん、そういった話題の中心に一時的に私の話題が存在していて、私の書いた記事を全く読まないことはありえないでしょうから、完全に影響がないとは絶対に言えないでしょうが、影響力までは証明できないのです。

 それでは、全く無駄だったかというと、そうではなく、学説というものの存在をぼんやりと一般の歴史好きの方に知らせることは少しはできたのは間違いないと思いますので、それで満足すべきではあるのでしょう。

 少なくとも中国史に関するジャンルの話題は、「推し」人物ジャンルが隆盛していた時よりも、匿名掲示板やtwitterでの書き込みが増えているように見えます。

 私のアカウントによる活動が、ネットの中の中国史という一ジャンルの潮流を、「推し」人物の話題から学説と交えて話すことに、在り様全体の流れを変えた可能性はあるのではと思いつつも、私アカウントのフォロワーも数は平凡なままで、中国史のブログを開設したアカウントに比べてもRTもいいねも相変わらず多くはないです(笑)

 それも「(彼らの言う通り)知名度や影響力は多大であったが、(このことだけでなく)批判が多い私を嫌う人が多く、その結果、余りフォローがされなかったため」なのか、ただ単に、「芳しくない知名度はそれなりにあったが、考えそのものは実はそれほど支持されていない」なのかも分からないのです。

 最近ではどうも私が行っていた批判を原因としたらしい一方的な非難を受けたことをきっかけとして、twitterでの活動を休止しています。

 なんとも不思議な体験です。私が「推し」人物を行っていた人々にとって困った存在であったと同時に、あるいは、学説という新たな分野を一般の方に知っていただき、いままで会話にはいりづらかった方々が中国史を語りやすくしたかもしれません。

 あるいは、ただの私の影響力を過大評価した上で、私に全て責任を押し付けただけの悪口に過ぎないかもしれず、私の勘違いかもしれません。

 なんともしまらない結論ですが、私の体験として、語らせていただきました。

 私としての結論

 なお、私としては、「色々と問題もあったが、絶対に私しか取り組めなかった。それはむしろ、誇りに思っていい。最終的な影響力は断定はできないが、ある程度の影響はあったことは間違いない。それを受け入れた上で、総じてみれば良い結果であったと信じている。アカウントそのものが強い支持を受けず、それが良い結果であったことを確信できないのは残念だが、それは私の行き過ぎを自制するために、かえってよかったのかもしれない」と感じています。

実際に私の発言が発端となって、荒れ地や焼け野原になっていたとしても、その結果をそういった「推し」人物を進めてきた人たちも受け入れるべきでしょう。それはどういった理由であれ、多くの人から支持を受けなくなったという意味です。時代の意識は常に変わっていきます。

中国史というジャンルが荒れ、焼き尽くされたのなら、もっといいもの、さらに面白いものをつくるだけのことです。歴史好きとはそういう人たちであったはずです。

そうでしょう?

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