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私が私自身の歴史理解に対する自己評価が低かった理由を、できるだけ客観的に自己分析

 このことについて、考えました。

 twitter上の私をご存じの方は、私が歴史認識に対する自己評価が低いようには見えないかもしれませんが、実はそうです。

 自己認識をある程度できたのは、ここ最近です。

 私は、長い間、自分の本当の歴史理解力よりかなり過小評価していました。

歴史理解に対する自己評価が低い理由

 自己評価が低い割には謙虚には見えないと思われるかもですが、私が他の方の意見を「こんなに歴史に詳しいのに、私が分かる程度のことが分からないとは、おかしいだろう。なんか、魂胆があるだろう」と考えることが、私が批判を行う理由の一つです。

 それゆえに、私が純粋に知識についてだけの批判を行ったことはまずないです。「常識」や「勉強した方がいい」などとは言いません。歴史のそんな詳しい知識なんてなくても生きていけます。たまたま、知らなかっただけなのは他の部分では私も同じなので気にはしません。

 気にするのは、知識があるはず、分かっているはずなのに、おかしなことを言っていると私が感じた時だけです。

 なぜ、私が自分自身の歴史認識に対して自己評価が低かったというと、一つは、匿名掲示板によくいる歴史知識自慢の自己申告を信じこんでいたこともあります。

 ですが、これはさすがに3年以上前に、色々な意味で「彼らははったりを言っているか、自己認識がおかしい。その意見のほとんどは取るに足りない」ことには気づいてはいます。自己の歴史理解力を客観的に見ることができたかはともかく、彼らの自己申告のほとんどが怪しいことには気づいています。

 それよりも、最近までの私が、自分自身の歴史認識に対して自己評価が低いかった理由

・難しい専門書が読めない、読んでいない
・中国語、漢文が難しいと読めない
・史学をきちんとした形で勉強していない

 からです。

それなら、私がなぜ、ネット上で歴史の論理展開ができ、破綻しないのか?

 それでは、なぜ、そのような私が、歴史理解ではかなり筋道だって考えられ、ネット上で歴史の論理展開ができ、少なくとも近年は致命的な論理破綻は指摘されたことはないかについて申します。
 これは、何人もの方がそう私に申し上げていますし、匿名掲示板に書く、どう見ても私に好意的でない人ですら、最近では「学識や歴史知識はある」と評されています。

 確かに、私は様々な中国史に対するネットでかなり流布した独説にそれほどの知識がない段階ですら、違和感を抱いたことが何度もあります。
 また、調べた結果、ネット上の大勢が主張していた意見よりも、私の考えの方が史実や学説に沿っていたという結論に達し、それが何年経ってもゆるがないことが何度もありました。

 こう何度も続く以上、これはもう、間違いなく、私自身を「歴史理解ではかなり筋道だって考えられ、ネット上で歴史の論理展開ができる」のに自己評価が低かっただけと判断すべきでしょう。

 なお、日本史では近年、すでに「学説ですでに世間で流布した通説を批判、否定する」、「近年の学説で旧説を批判する」はかなり行われています。

 ですが、これは同時に「歴史理解に対する大いなる才能」を有するわけではないと、自己分析しております。

  私が「歴史理解ではかなり筋道だって考えられ、ネット上で歴史の論理展開ができる理由」は、実は、私が「歴史理解に対する自己評価が低い」原因と同じ理由です。
  つまり、「難しい専門書が読めない、読んでいない」、「中国語、漢文が難しいと読めない」、「史学をきちんとした形で勉強していない」からです。

 これは、つまり、私が「専門的あるいは高度な技術を習得できず(あるいは、しておらず)、それがために、少ない情報しか得ることができない。それと同時に、比較的、少ない情報を処理して、そこから来る最も筋道だった考えを導くことや選ぶことにとても長けている。そのために、生じた現象である」ということと自己分析します。

 つまり、上の三つができないからこそ、得られる情報は制限され、情報の処理能力をオーバーすることはないだけに過ぎません。

 残念ですが、私が「歴史理解における圧倒的才能がある」とか「史学を学び、語学を習得し、専門書を読む時間が確保されていたら、有名な歴史学者になれたかも」ということはないと感じます。

 私がそれほどの人物なら、もっと、この数十年間に漢文や中国語、英語を習得し、分厚い専門書を読破して大意を理解し、史学に対する理解を独学でもっと深めています。私はそういった「大学者になれたかもししれないが在野で終わった人」ではないのです。

 こういった人物は、高度な知識が得にくい以上、基本を大事にして、スタンダードな回答や基本からの発展的な回答は得ることにはすぐれています。
 しかし、基本の枠を超えた高度な技術がないために、さらなる高次な理解や回答、そこからの発展を得ることはできません。

 私が学者になったとしたら、比較的、分かりやすいテキストによる説明にはすぐれるかもしれません。
 また、学会に流布した解釈がおかしい旧説に対する批判、新しい史料による旧説の否定にもすぐれる可能性はあるでしょうが、本当の意味で傑出した学者にはなれなかったでしょう。 

 自己評価が低くなった理由

 もっとも、これは私が「自分がたいしたことない」と思う謙虚な心があったから結果的に生まれたのも事実であります。

 また、匿名掲示板やtwitterでの私に対するの批判において、「難しい専門書が読めない、読んでいない」、「中国語、漢文が難しいと読めない」、「史学をきちんと勉強していない」と指摘されたことがありました。
 これは数少ない正当性のある批判であったため、「それはそうだ。自分はその程度に過ぎない」と思い、かえって「そんな自分でも分かることが、他の人はもっと知識があり、語学力もあるのに、(時には、自慢するほどなのに)理解できないはずはない。できないのでなく、しようとしないだけではないのか」と他の方について、考えるようになった側面もあります。

 過去においても、(私との相対的比較における)他人の自己申告や自己認識を真に受けたこともあり、それを謙虚でありたいという気持ちから、まだまだ引きずってはいたということもあるでしょう。

 結論としては、
 ①自己の能力や知識、技術に対して謙虚でありたいという心が誤った自己理解と他者認識を生みかねない。謙虚というものは必ずしもいいものではない。
 ②能力が低い方が得られる情報が限定され、高度ではないが、地に足のついた理解を得ることがある。ただし、その分野における高度な理解には遠い。

 ということなのでしょう。

きちんとした自己認識をした上で、そういった自分を生かせる活動を

 私のこの歴史理解は、論文を書き、歴史理論を高度あるいは広大に展開させるには向いていないはいないでしょう。

 また、超人的な能力はないことから、ネット上で手放しで絶賛される歴史マニアにもなりにくいと感じます。

 ただ、これは、逆にいえば、高度過ぎないものしか考えられないために、趣味でとどまる歴史好きの人が理解しやすい文章や論理、解説を展開させることに、私が長じている可能性も同時に感じます。

 私が調べるものが主に日本語で書いた文献や原典に限定されるなら、参照もしやすいでしょう。理解を深めるきっかけやさらなる発展につなげる機会をつくることにつながるかもしれません。

 今後は、そういった自分であると自己認識して、「専門的あるいは高度な技術を習得できず(あるいは、しておらず)、それがために、少ない情報しか得ることができない。それと同時に、比較的、少ない情報を処理して、そこから来る最も筋道だった考えを導くことや選ぶことにとても長けている」自分を生かせる活動をやりたいと感じてします。

 

 
 

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