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〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、26ー30

第26回
 作品は、アーティストの個性と創意、工夫で作られたものですが、作品の意図が、どこから現れたとなると、見方が、別れてきます。〈描いた〉から〈描かされた〉の変化は、質的な違いが生じてきます。
 後者には、天界やらイデア界やら、どこかにある不可知の世界が前提となりますが、身体性が希薄になったアバターの世界に、それらは近く、今日の美術シーンも、近づいているのかもしれません。

 オンラインやネットオークションもそんなことの表れともいえるでしょうか。

第27回
 コロナで、リモートにもなり、世界のコミュニケーションが、ネットで、可能と思わされるようにもなりましま。

 作品もネット上で、オンラインとして取引されるようにもなっています。そこには、作品の肉体である〈物体感〉が失われています。

 天上にあったイデアという情報、形相が、質量を持ってこの世に具現化したと考えられていたのですが、その質量を、作品も、作家も、みるわたしたちも失ってしまう世界にも通じているのかもしれません。

 これは、もちろん、美術や画廊にとどまるものるものでなく、人が情報としてのみ捉えられている今日の社会の様相でしょう。

 社会から身体性が失われているということは、われわれの意識が、誰かの身体性を失いはじめていることでもあるでしょうし、それは、己の身体性を失っていく過程でもあります。


第28回
 身体性を失うこと、誰かが身体を持っているというイメージが低下していくことでもあります。それは、私とあなた、そして誰かとの具体的な違いを見失っていくことにもつながっていきます。
 必要なコミュニケーションを、情報だけに置き換える、最近、年賀状がメールやSNSを利用するものになってきましたが、年賀状も、もともと年賀の訪問を簡略化したものでした。
 簡略化することで、多くの人に、年賀の祝いを伝えることができるようになりました。人によれば一万人くらいにも送っている人もいるでしょう。
それに数十年も会わないまま賀状だけの付き合いを可能にしています。
 身体性を落として、情報化することで空間も時間も越えていくことを可能にはしているのでしょう。

 けれども、身体性をうしなうことは、個別性を失うことに繋がりもします。年賀状をもらっても、メールやSNSで通知をされても、それが本当にその人かすらわからなくなっています。FaceBookでも、誰々さんのお誕生日です、と通知が来たりしますが、もの何年の前になくなっている方だったりします。美人からのメッセージも、実は機械的なフィッシング詐欺のこともあります。本当の姿とは何かわからなくなっています。
 でも、このことは同時に僕の存在も、他の人にとってわからなくなっているということでしょう。

 なんで会わなければならないの?無駄じゃん、ZOOMやスカイプで良いじゃない。意味がわかならない・・・・。

 具体性、身体性、個別性の回復のためにも、画廊に少しは足を運んで、そのものを目の前にして、筆使い、質感、ややもすると振るい落とされるものを感じることも大切だと思います。

第29回
 アーティストの名刺をのことを書きながら思い出したのですが、最近は、会場の様子や作品の撮影が、許可されるようになりました。

 昔は、写真撮影が禁止でした。

 昔、法隆寺の金堂壁画が、火災で消失したことがあります。画家が模写の際、暖房用に使っていた電気座布団が原因とされてますが、一説には、証明のためのライトの所為だともいわれています。

 かっては写真といえばストロボで、美術作品に対するそのことによるリスク防止もあったかもしれません。

 また、強い光による物質としたの作品への影響もおそれていたかもしれません。

 今日的には、やはり、著作権の影響でしょうか、東京都写真美術館の展示に行ったとき、多くは撮影可でしたが、一部、禁止の作品もありました。借り出したり、権利者が、許可しないものもあるのでしょう。

 最近は、スマホなどで撮影をしてもらってそれをSNSで、あげてもらうのは、むしろ、歓迎されるようです。

 写真を撮る、とはいえ、その意味が大きく変わってきたのでしょう。



第30回
 最近、仲間内にでた話ですが、ジェンダーとセクシュアリティについて、会話が盛り上がったことがあります。<女性が>、<男性が>というとき、ジェンダーというのは、社会化された性の違いであり、セクシュアリティというのは、生物学的な(これも、抽象化による区分けであるという視点では、学問という社会の領域での社会化されたものでもありますが)性の違いです。
 様々な意見の中でも、この二つの視点は、混じり合うことが多いのですが、できるだけ自分の思考の中では、どちらの根拠で考えているか留意することは、大切だと思います。

 生物学的な違いと、社会化された違いは、互いが合わせ鏡のようになっていることと、社会化された違いは、様々な形の社会化の様相があってひとりひとりの心のうちでは、その人が受け入れたものと受け入れなかったものが、混じり合って存在しているのでしょう。

 <画廊に行くようになって気がついたこと>では、ここのところ身体性の問題に踏み込んだ話をしています。

 何度か触れていると思いますが、女性のアーティストと、男性のアーティストの作品には、様々な質的な違いがあると思います。ただ、作品というのは、社会に打ち出された表現ですから、女性を通して顕われた社会化、男性を通して顕われた社会化、ともいえるのですが。少し、ここのところを触れていきたいと考えています。

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