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人生はギャンブルだと思う幾つかの出来事。 僕は安牌、安全に生きようなどは出来ない。

今の僕を取り巻く環境は、不動産投資を通して、様々な事柄を可能にし、生きています。そして人生においては、幾つかの大きな転期も経験し、そして乗り越えてきました。それはまさに人生ゲームでした。

どの道を選ぶのか?サイコロの目は何が出ると行きたいところに進めるのか。
まさにゲームそのものでもあり、そして経験が蓄積されることで、進めるステージが沢山待っていました。

今日は、人生はギャンブルだなと思う出来事のいくつかに思う話を書いてみようと思います。全ては、不動産投資を行うように仕向けられていたと過言でない
僕の人生はギャンブルそのものです。

何度か死にかけた出来事

一つ一つ、すべての物事に、歴史、風景があり、固有の人生があります。

幼年期、記憶にあるのは、過去の幼年期時代の記事にもあるように、母親から殺されかけた?出来事でした。

母親に自転車を2階から下ろして欲しいとねだった際、自転車ごと階段上部から
僕は落とされた事があります。その時のコブは今でも大きく残っています。
そして、よく死ななかったなと小さいながらに思ったほどです。

少年の時には、自転車で何度か車に轢かれそうな出来事がありました。それは
自転車のサドルを極限まで低くして、坂道をものすごい勢いで降りながら、
坂下のカーブを高速で曲がる(チャリダーでハングオンスタイル)練習をしていた時。死ななかったのは幸いでしたが、怪我は日常茶飯事でした。

青年の時には、スクーターで無茶な走行を街中でしたり、実際に峠で暴走したりと若気の至り的なことをしていました。渋滞中、縦横無尽に走っていたとき、急に止まったタクシーのドアが開いて、突っ込むような出来事も実は数回あったりします。 

よく死ななかったなと思う反面、骨折もなく、すべて軽傷で済んでいたことも信じられない出来事だと今は感じています。 無茶だっだけど、もう今はそのようなことは絶対したいとも思えません😅 単に頭がおかしかったのでしょう

人を裏切ったり、嘘をついたり、騙したり、自分勝手な人間だった

誰かが見ていると思う、なんて思わなかった。自分さえ良ければいい生き方だった。それまでは。

人間として最低な性質を兼ね備えていた僕は、なぜかいつも人から嫌われていました。それは自分でも分からなかったけど、僕は僕が思ったように生きていたから、別に嫌われても良いと感じていました。しかし、働いていても昇進もさせてもらえず、給料もたいして上げてもらえなかった。疎外感も生まれていた時もありますが、過去からそんなのは慣れていたので、気にもしていませんでした。 仕事で問題を起こすのは大抵僕で、クレームを受けるのも僕、社内の空気も僕がいつもぶち壊していました。 本当に自分勝手だったんです。 沢山の人たちを蹴落としてきたつもりだったけど、自分で落ちていった。それはやり直すことを教えてもらえた最良の出来事でした。

そして、少しづつ働きながら、修正してこれた。 少しづつまともな人間に、世間に通用する生き方ができるようになっていった。 それまでは、悲惨だった。妻だけが助けだった。 よく支えてきてくれたと思うし、僕を成長させてくれたのは妻だった。別れていないことは奇跡だと思う。 

事後報告でも何もかも理解してくれた妻の存在、本当のギャンブラーは妻

渡ろうか、渡らないでおこうか、迷うこともあるけど、僕は迷うならばいっその事・・と勝手に渡ってしまう。

人間的に未熟な僕を知っておきながら、結婚してくれた妻は、多くを理解してくれてくれました。人として欠陥の多い僕を、時をかけて少しづつまともに育ててくれたと、近頃は本当に感じています。妻は僕を活かし、生かし、共に世間の中で成長をしてゆくことを諦めずにいたと感じています。

何かをしようとすれば、僕は思いつくまま直ぐに行動に移します。買い物をする、転職をする、衝動的な言動もすべて、妻に理解される状況を作り出さず、すべて事後報告や、ことが進んでしまった段階で伝えますが、喧嘩もしますが、理解してくれて今があります。

こと、お金に関しては、財布を僕が握っていたことから、貧乏だったけど、絶対にお金で困らせたくないと常々思っていたことから、何があってもお金はあるようなそぶりを見せていました。が、きっとそれもお見通しだったのではないでしょうか。

まさにギャンブルをしていたのは妻の方だと感じています。妻は、本物の人生のギャンブラーなのです。 僕と共にいることは人生のギャンブルなのです。
そこにフルベットしているわけですから、これは本物としか言いようがありません。

時が経ち、これまでのギャンブルの成果は出てきた。そして悩みながらも人生のギャンブルは続く

上流に行くには流れに逆らう必要がある。ただ、止まれば、腐る。人も水も衰退する。

僕の人生、死んでいたのではないだろうか?と思う幾つかの出来事からは、生かされている事に、きっと意味があるのだろうと感じています。
体が元気で、割と健康?!なのにも、これから先に起こす物事に必要だからではないかとも感じています。

人間として腐っていた時期、性質的に終わっていた時代もあったが、それは様々な出来事を自分が引き起こした結果であることを知り、物事には理由があることを学んできました。失敗があって何が失敗だったかも経験できたという側面も理解できます。

すべてを理解してくれていた妻の存在や、少しづつまともな人間として成長してきた自分の本質的なベースは妻が作ってきてくれたのだと感じます。
他の人が感じられないような、言動によって、深く洞察、観察し、性質を見極める認識する能力ななど、信じられないけど、そんな感覚的能力をも近頃は認識しています。

(ここで言う本質的なベースは、人間的な性質を様々見て、その行動を共に分析したりしながら理解してゆく、そのような深層心理までを読み取る洞察することで、瞬間的判断、直感、感覚をも鍛えてきた側面があります)

すべては意味のある生き方を、自らを体を張って経験してきたのだろうと思いますが、ギャンブラーであること、常に捨て身の生き方を実践してきたことは、今の全てですから、正しかったのであろうとも思います。

中卒なんて、誰しも歩みたくない、絶対に選択したくないはずです。
幼い時から、両親もおらず、愛されず、人に嫌われ、無碍に扱われて来た僕のような性質だって
誰しも自分でなくて良かったと思うでしょう。

そんな誰しも選びたくな生き方を行なって来たのが
僕であり、そしてその僕を育ててくれた妻です。

二人は相当のギャンブラーだと思います。

そして、まだ終わりではありません。
僕らのギャンブラーとしての生き方は、誰しも選ばない方を選ぶ生き方を
これからも行うでしょう。

大多数はこっちを選ぶ。安牌で安全な方を選ぶ。
安全安心を選ぶでしょう。


僕らは、きっと選ばない。
険しくとも、楽しい方を、大多数が選択しない方向に進むのは
間違いなく理解しています。

なぜなら、その先を見たことがない人が多いからこそ
その景色を見たい、経験したいと思うから。
人生は面白い方が良いに決まっている。
自分たちらしい生き方はギャンブルそのものを体現したようなものだから。

僕たちは、いつもそんな会話をしながら、
今後の人生も、迷わずフルベットして行きたいと感じています。

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