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帰ってきた仮面たちの祝祭

世界を震撼させたイタリアのコロナ地獄は2020年2月21日から23日にかけて始まりました。

北イタリアで感染爆発が起こり、やがて医療崩壊という前代未聞の苦境がやって来ました。

北イタリアのベニスで開かれていたベニスカーニバルは閉幕の日を待たずに中止されました。

翌2021年、カーニバルは早くから全面中止が決定され、それからまた1年が過ぎました。

カーニバルはことしは規模を縮小して、2月12日から3月1日まで開催されます。

カーニバルは日本語で言えば謝肉祭。

鏡妖しい650

イエスキリストの再生を祝う復活祭前の禁欲生活に備えて、大いに食べ飲んで楽しもう、という趣旨のカトリックの祭典です。

ベニスのカーニバルはイタリア全国でいっせいに行なわれる謝肉祭イベントの一つ。

幻想的な仮面と豪華けんらんなコスチュームを身につけた人々が、古色深い水の都を練り歩くことで知られています。

ベニスは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良いただならぬ場所です。


周知のように何もない海中に人間が杭を打ち込み石を積み上げて作った都市。

400余りの石橋で結ばれた運河や水路や航路が縦横無尽に張りめぐらされ、洗練されたベニス様式の建築物が街じゅうに甍を争っています。

ただでも美しいべニスの街は、カーニバルの期間中は幻想とスリルと神秘が支配する不思議な世界に変貌して、その美しさはいよいよ筆舌に尽くしがたいものになります。

思い思いの仮面と衣装を身にまとった人々が、広場や路地裏や石橋やゴンドラや回廊や水路脇やカフェ…といった街のありとあらゆる場所に出没して、あたりの雰囲気が一変してしまうのです。

仮面と衣装は古色あふれる水の都のたたずまいに溶け込み、霧と同化するかと思うとふいに露見して、見る者の心を騒がせます。

夢幻たちの立ち居は、運河の水面に反射する夕陽と重なって、こ惑的なシルエットを作ってはうごめいていきます。

仮面は謝肉祭には付きものの小道具です。

人々はそれを身につけることで、祭りの間は自分ではない何者かに変身して好き勝手に振るまうことができました。

このとき人々が最も欲したものは、純潔と貞節を重んじるカトリック教の厳しい戒律からの逃避でした。

つまり、祭りの期間中は誰もが性的に自由奔放に行動しようとし、またそれが許されました。

赤白仮面運河バック650

ベニスカーニバルがかつて「妻たちの浮気祭り」と冗談まじりに呼ばれたのは、そういう社会背景があったからです。

ベニス出身のカサノバが、プレイボーイとして大いに世間を騒がせていた1700年代の水の都には、カーニバルの期間中ほとんどフリーセックスに近い状態が出現したとさえ言われています。

カサノバの死と前後してベニスに侵攻したナポレオンは、街でひそかに繰り広げられる奔放自在な性の祭典に肝をつぶしました。

彼はただちに「祭りの期間中は仮面 の使用を禁止する」という不粋な法律を制定します。

このときからベニスカーニバルは衰退し、復活までに長い時間がかかりました。

祭りの人混みの中で顔を隠して、身分を分からなくしてしまうことが目的の仮面なら、 他人のそれと似た物の方がいい。

スタイルや美しさということよりも、先ず目立たないということが大切です。

だから昔のベニスカーニバルでは、「バウータ」 と呼ばれる四角四面で鼻の大きい単純な作りの仮面が巾をきかせました。

バウータ背景にデュカーレ宮殿

バウータは伝統的という意味ではそれなりに味のある仮面ですが、ただそれだけのことで、創造性もなければ新しさもなく、当然驚きもありません。

かつてのベニスカーニバルでは、参加者のほぼ全員がバウータ仮面をかぶっていました。衣装も単純なものでした。

ところが時代が進んで性が開放されるにつれて、カーニバルの仮面は本来の意味を失っていきます。

時間と共に人々のセックス観は変化していき、カト リック教の戒律にしばられていたベニス人も性的に自由になりました。

現代では宗教の言ういわゆる不道徳な性は、カーニバルを待つまでもなく日常的にどこにでも 転がっていて、その気になればいつでも簡単に手に入れることができるようになりました。

以来カーニバルの仮面は、顔を隠すための道具としてではなく、逆に自己顕示のためのそれとして使われるようになりました。

そうやって伝統的なバウータは片 隅に追いやられます。

壁掛け縦横600

人々は祭りの舞台でひたすら目立ちたい一心からより独創的なもの、より華やかできらびやかなもの、あるいはより奇抜でおどろきにあふれた 仮面を作り出すことに熱心になりました。

衣装も同じ方向に進化していきました。

仮面の進化する過程と平行して、ベニスカーニバルは年々ベニス人の手を離れてよそ者の祭りになっていきました。

というのも、カーニバルに新しい仮面や衣装を持ちこんで祭りを盛り上げていったのは、ほとんどがベニス以外の土地の人々だったからです。

現在ではそうした人々はイタリア国内ばかりではなく、ヨーロッパ各国やアメリカなどからもやって来ます。

彼らは1人ひとりが手間と時間をかけて独創的な仮面を作り上げ、それに合わせた衣装を作製してベニスに乗りこんで来ます。

650ゴンドラ背景真っ赤衣装

つまりベニスカーニバルの主役は、もはや年に1度だけの性の狂宴を求めるベニスのつつましい「浮気妻」やその夫たちではなく、世界各国からやってくる熱狂的な祭りのファンでありアーチストになったのです。

伝統的な仮面と衣装に郷愁を感じている生粋のベニス人はそれが気に入りません。

彼らは「最近のカーニバルは派手になりけばけばしくなった」と良く嘆きます。

しかし、地元の人間が嘆けば嘆くほどベニスカーニバルは面白い。

それは言うまでもなく、より多くの独創性にあふれた仮面とコスチュームが街に集まることを意味するからです。

祭りをよそ者に奪われて悔やしがる地元の人々には申し訳ないが、美意識と想像力とスタイルに裏打ちされた仮面や衣装が水の都を徘徊する今のカーニバルは、むしろ「これこそベニスカーニバル!」と快哉を叫ばずにはいられない光景です。


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