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母さん、グレイヘアにしたってよ。


LINEで送られてきた家族写真のまんなかに、ひとりのおじいさんが写っている。


いや、それは紛れもなく私の父なのだ。でも、初対面の人にその写真を見せれば、写っているのは「おじさん」ではなく「おじいさん」だというだろう。

頭のてっぺんがつるんと光って1本も毛がないのは10年くらい前から変わらないが、サイドにささやかに残っていた髪の毛も、真っ白でぽわぽわとした綿毛のような、ささやかなものに変わっていた。兄と妹と母に挟まれて、そのおじいさん、もとい父は、やたらうれしそうに笑っている。

私はびっくりした。「お父さん、いつからそんなおじいさんになったの!?」思わずLINEで叫ぶと、父は昔飼っていた愛犬に似た黒ラブのスタンプでおどけて返してきた。

その日は彼の63歳の誕生日だった。

私が5年ぶりに実家にもどり、両親と3人暮らしを始めたのはその1ヶ月後のことだ。新卒で入った会社の地方勤務を終え、東京に異動になった私は仕事に疲れ切っていて、心からほっとしていた。日々更新される情報を追い、トレンドに目を光らせ、インプットとアウトプットを繰り返して…。気付いたら、24歳で大学を出た私は28歳になっていた。その間、体感としては3秒。といったら大げさだが、14歳から19歳までとは明らかに違う4年が過ぎていた。

世の動きを追うのも、トレンドに目を光らせるのも、仕事を辞めない限りはつづいていく。でも、少なくともこれからは毎日、「うち」に帰ることができるのだ。そこには、日本の未来はさておき、人々のニーズも世の中の最先端の流行もどこ吹く風、そんなことよりも娘である私の健康と幸せを願ってくれる、おそらく世界に唯一の人たち、お父さんとお母さんがいる。そんなセーフ・ゾーンが当たり前ではないことを、私はすでに知っている。パワハラもセクハラも見てきた。そこでは、ターゲットにされている目の前の人が、誰かの大切な娘であったり姉であったり、友達であったりするかもしれないなんて想像力は意味を持たない。責任感や職業倫理の皮をかぶった支配の世界。それが社会ってもんです、と言われても、私は私の安全な繭の中に帰れて、うれしかったのだ。

話はタイトルにもどる。

スーツケースを引いて羽田からトコトコ電車を乗り継ぎ、実家の最寄り駅に降りたった私は、迎えに来てくれた母の姿を見て、びっくりした。
「お母さん、頭白くなってる!」
ベリーショートの髪型は変わらない、大きなピアスも、真っ赤な口紅も変わらない。ぽっちゃり体型に、私に遺伝しなかったばっちり二重の瞳、意外とおしゃれ、そんないつものお母さんだ。違ったのは髪の色。

「還暦を迎えるにあたり、白髪染めをやめることにしました」

その日は、母の60歳の誕生日のちょうど2週間前だった。

グレイヘアに注目が集まっていたのはちょうどその頃だったと思う。フェイスブックで、仕事で知り合った国連に勤務するキャリアウーマンの知り合い(考えてみたら母より10個年下だ)が「今の自分を楽しむために白髪染めやめました!」と宣言。銀とグレーのまざった髪をベリーショートに切り、紫のスカーフをかっこよく巻いて笑っていた。日本語と英語両方で書かれた投稿は、長年白髪染めを続けたことについて「Enough is enough!!(もう十分)」と、開放宣言のように締め括られていた。コメント欄には彼女のアメリカ人の夫が「How brave!とても似合ってるよ!」と称賛を送る。5歳の小さな娘さんのいるご夫婦への祝福を込めて、私も300を超えるいいね!のひとつを彼女に送っていた。

Embrace my age. 年齢を受けいれ、無理に若い見た目をつくることなく、ありのままの姿を楽しむことなんだそうだ。

同じ頃、20代後半から続けていた白髪染めをやめたフリーアナウンサーの記事を新聞で読んだ。「自然体でいたい」。決意の裏にはやっぱり、解放の響きがあった。

国連の職員、フリーアナウンサー、そんなキャリアウーマンたちと時を同じくして、母もグレイヘアになった。
3人に共通するするのは、なんというか、「もう、やーめた!」という明るい放棄だ。私、もうやりませーん。めんどくさいけど、やらないといけなかったものを、ぽいっと投げて明るいところに駆け出していく。

最寄り駅で白い髪を太陽の光できらきらさせて、お母さんは私に「おかえり」をくれた。迎えに来なくてよかったのに、駅から実家まですぐなのに、わざわざ出てきてくれて、私はとても、うれしかった。

就職して東京を離れた4年間で、父は否定しようもなく「おじいちゃん」になった。母はなんというか、「おばちゃん」と「おばあちゃん」の間にある何かになった。いずれにせよ大好きな父さんと母さんだ。何も変わらないと思うと同時に、急な変化にちょっと戸惑う自分もいる。老いの先にあるものを思えば、切なくなるから。

Embrace my age.
これは今年30歳になる私にとっても人ごとじゃない。会社ではベテランではないけど、もう新人でもない。権限があるとは言えないけど、甘えも許されないのにミスは超する。出産した友達がお母さんの顔になっているのを、インスタを見て驚かずにいられない。
30歳は、人生100年時代では赤ちゃんみたいなものかもしれないけど、本当にめちゃくちゃ真に若い人から見たら、もうおばさんかもしれない。Lチキを食べ切れなくなり、マックが美味しくなくなり、無理した翌日のクマが治りにくくなった。お腹周りのお肉をつまむと、ぷにっと美味しそうに伸びるようになった。大学生の女の子のつるっとした丸い頬を見ると、20代前半なんて、一人前の大人のような顔してるけど、それこそこの子たちまるで赤ちゃんじゃないか。食べたくなるほどかわいいと思う自分がいる。

何者にでもなれると思っていた時期が終わりかけ、私がこの足でたどりつけるのはどこまでか、見えかけちゃってるのが怖くて将来を薄目で眺めることを覚えた。

私は60代の両親と暮らす、30歳になろうとする娘だ。
社会人になって離れていた4年間が、あまりにも体感3秒なもんだから、一気に更新された老いについていけなくなっている。

あの頃より歳を重ねた両親は何がちがくて、私たちの3人暮らしはどう変わっていくのだろう。4年間を少しずつ埋め合わせることが、このnoteのひとつのゴールだ。

母さんが、あの人が、そしてあの人が、グレイヘアになった。理由は、白髪染めをやめて、embrace my ageしたいから。

グレイヘアをとりあげている新聞記事を読みながら母が言った。
「なんか、わたしがやり始めてから一気に流行ってみんなやりはじめた気がするのよねー」

母さん、それはさすがに、自意識過剰ってもんだ。


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