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【随想】「ことだま」を信じなくとも言葉を使えますけれど

 最近、新聞、雑誌の記事、連絡メールを読んでいて思うことがございます。

 情報を必要とする人に必要な情報として伝えるためには、「5W1H」(いつ、どこで、だれが、何を、どうしたのか、それはなぜか)という基本を踏まえることが重要とされているのにもかかわらず、この基本を知らないのか、全く忘れてしまったのか、基本を踏まえたものが異常なくらい少ないのでございます。

 これは発信する側の問題なのですけれども、もっと気になるのは、受信する側に問題があるということでございます。

 SNS(Social Networking Service: 市民間の情報網)の普及によって、短文による意思伝達が日常化してまいりました。誰にでも容易に一言を発せられることで、これはこれで良いことと存じます。

 しかし、反面、短文では意図することが正確に伝わるとは限りません。安易に短文で発信して、意図することが部分的に欠落してしまい、発信している側は、その意図が伝わっていると思っていても、実のところ、正確には伝達しきれていないことが起こり得るのでございます。

 発信する側には正確に伝えようとする意識、丁寧に伝えようとする親切(努力)が必要であり、受信する側には正確に意味を読みとろうとする努力(想像力)が必要でございましょう

 100%完全に伝えきれないところもあるという制約を知りつつ、私どもが日常さり気なく使用しているのが「想像力」ではなかろうかと思うところでございます。言葉の意味を、相手の立場を、気持ちを、総括的に考えて理解するという想像力のことでございます。

  互いに、この想像力があって初めて意志の伝達が成り立つものと存じます。

  言葉を使うことが上手な人(たぶん知的な人と言えるでしょう)が発した言葉が相手の想像力を喚起することも多くあるでしょうけれども、通常は、受信側の想像力に委ねられているものと存じます。発信側に欠落があったとしても、この場合、思うように伝わらなくて当然かもしれませんが、受信側の想像力がその欠落を補うこともございましょう。

 これは、大学の入学試験で問われる「読解力」とも共通すると思われます。同等と申し上げても良いのかもしれません。
 「読解力」は、単に言葉尻を捉えて判断するのではなく文章全体の構成を掴み、文意を捉え、意味するところを判断する力と申し上げることもできましょうか。この「読解力」を培うには、日本語に限らず、言葉の基礎力(語彙、単語の適性、文法、言葉の体験)が必要となるゆえに、入学試験(つまり、社会の常識の範疇)で問われるのかもしれません。

  SNSの短文での遣り取りを体験して、そして、ウェブ上の報道記事を読んでおりまして、問題と思うところが、受信側にこの「読解力」が著しく乏しく、日本人でありながら日本語を理解していない、日本語の素養に乏しいと思わざるを得ない例が山ほどあるというところなのでございます。(勿論、発信側に欠落が多くて意味をなさない遣り取りになることは問題外)

 自分勝手な解釈が罷り通り、納得すること、説得することなどの論理的な展開が成り立たず、話し手の閉鎖空間で自己完結してしまっているのでございますよ。相手の話を聴き、議論すべきところ、意に反する考え方をいきなり否定し、己(おのれ)の言い分のみを主張し続けるのでございます(これは極端な例を挙げているのではなく、日常茶飯事のこと)。SNSの便利さに振り回されて己の無能さを晒している者の何と多い事かと、実にみっともなく嘆かわしいと思わざるを得ません。

 これは、学校教育に問題があるのでございましょうか。社会に問題があるのでございましょうか。単に「時代の流れ」とか言って済ませてしまう風潮には言い知れぬほどの情けなさを感じるところなのでございます。(日本人同士が日本語で意思疎通を図れていない・・・)



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