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ムスコの四半世紀

今年も残すところ後わずか、年が明けるとムスコの誕生日がやってきます。
1999年1月14日にムスコは生まれました。「誕生日が成人の日の前の日なんて覚えやすいね」なんて話したのを覚えています。残念ながらその翌年から成人の日は連休の構成要員として、日程をふらふら彷徨い始めました。それにしたって来年は1月8日って、ちょっとやりすぎじゃないですか。そんなに国民の正月休みを長くしてどうしますか。景気回復がたいして望めないからせめて休みだけでも、なんて休日の数が増えたわけでもないし…、あ、話がそれました。

さてムスコの成長を見守りながら「この子の成人式はもしかして誕生日と重ならないかしら」と楽しみにしていたら、案の定重なった。まあ、男子の成人式なんて振袖を着るわけでもなく、羽織袴にするか聞いたら「勘弁してくれ」とのことだったし後々使えるようにごくごくフツーの黒のスーツにして、しかも写真すらまともに撮らせてくれないもんだから母は式に出かける仕度中の姿をスマホで盗撮、我が子の成人の日はちょっとおしゃれをしたただの誕生日となりました。式では同級生たちとウェーイと盛り上がることも無く、仲良しの子とだけ一緒に過ごしてさっさと帰ってきたムスコ。シックなワインカラーのダッフルコートを羽織って行ったんだけど、のちに同級生たちから”赤いコートを着てきたスカした奴”になってたらしいけど、噂ってコワイわね。

来年でムスコは25歳になります。早い。今幼子の子育てでアタフタ、ヒーヒー、ドタバタ、マゴマゴ、ヨロヨロしている皆さん、安心してくださいあっという間に終わりますよ。可愛い時期もあっという間に終わる。ぷにぷに可愛いほっぺのボクもあっという間に髭面に。

25歳といえば四半世紀人生を過ごしたことになります。しはんせいき。もう歴史ですね。あっという間ではあったけれどもちろん色んなことがありました。そして私自身も親として四半世紀過ごしたことになります。一生懸命やったはやった、でも自分の子育てが正しかったのかどうかはわかりません。何が正解なのか、それはムスコが人生の最後を迎えるときに「生まれてきて良かった」と思うかどうか、そういうことなんじゃないかと思います。子に結果を委ねる逃げの姿勢ですね。

実は独身時代にとんでもない夢を見たことがあります(ちょっとショッキングな話かもしれないので苦手な方はここまでで)。
夢の中で私は子供を産んだのだけど、どうやらそのことを忘れていたらしい。らしい、というのは突然「あっ、子供産んだんだった!」と思い出したところから夢は始まって、慌てて探しに行くのですが赤ちゃんはなんと干し柿のようにカピカピに干からびている。どんだけ長い間忘れていたのか、私。そして迷うことなく慌ててヤカンのお湯をかけると、みるみるうちに赤ちゃんはふっくらまん丸ピンク色に戻って、にっこり笑ってくれて私はほっと胸を撫で下ろしそこで夢終了。かなりおぞましいそんな夢をその後何度も思い出しては、子供を持つのがちょっと怖くなることがありました。「お母さん、産んでくれてありがとう」とことある毎に思うほど自分の人生に肯定的だった私は絶対自分も子供を持ちたいと思っていたのに。

私が出産した病院では誕生した翌日から親子同室が始まりました。初めて病室に連れてこられたムスコと対面したとき、嬉しいのと同じくらいの「重さ」を感じたのを覚えています。「おお、これから私は一生この子を背負って生きるのか、とんでもないことをしでかしてしまった」と。そして、「絶対にこの子を干からびさせないようにしなきゃ」と肝に銘じたのでした。あのヘンテコな忌々しい夢は、それまで「守るものなんて何もないし〜、怖いものも無いし〜」なんて脳天気に生きていた私に、腹を括らせるための戒めだったのかもしれません。

さて、「子育て」の時期はとっくに終わっていても、我が子にはさらにひとまわりもふたまわりも大きな人間になってもらいたい。身長が思ったほど伸びず止まったのは仕方ないけどせめて心持ちだけでも。かといって手取り足取り教える時期は過ぎたし、私にはもうできることは何もないのですがちょっと物足りないので、考えてみました。うーん、できることがあるとするならば私が自分の人生を精一杯生きてみせることしかないようです。私がいなくなってから「母(こう呼ばれています)、けっこうがんばったよな、俺もがんばろっかな」くらいは言ってもらえるようにやってみましょうかね。 










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