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10年前のあの日

東京に来て2年くらいになるが、初めの頃はよく自己紹介で「仙台出身です」と言ったあとにお決まりで返ってくる「そうなんだ。震災大丈夫だった?」という切り返しに面食らっていた。

「もしここで私が『実は家が全壊で…』とか『両親が…』とかって話し始めたら、この人はどんな顔をするんだろう?」と思いながら、「あはは、大丈夫でしたよ、大変でしたけど」と返すしかなかった。とてもじゃないけどあの時を東北で過ごした人にとっては、初対面でする話ではないのだ。だって、家が、学校が、街が、人が、数え切れないほど流されて失われた。当然、失われた人やモノがない人なんていない。私は被害が少なかったほうだが、様々な状況の人がいるわけで怖くて軽々しく聞けない。度重なるこの質問を受けて、もしかして東京の人にとってあの震災って過去のもので、被害にあったのは少しの人だけと思っているのだろうか、テレビの向こうの遠い世界の話だと思っている人が多いのだろうか、と色々な思いが頭を巡った。

当時、私は算数のドリルをカンボジアの小学生に渡すプロジェクトに参加しており、あの日の前日にカンボジアから日本へ帰ってきたばかりだった。それまで考えていた「国際協力」「国際理解」「ボランティア」などというものがとても甘いものだったとショックを受けて帰ってきたのを覚えている。カンボジアには十分な教育が受けられず、小学校を退学してしまう児童が多数いる。私たちは彼らがなぜ小学校を退学してしまうのか、ということを調査しに行ったのだが、「学校で勉強するより家で農作業」「お金がないので街に出稼ぎに行った」という理由が多く、またその前年度に送った算数ドリルはさまざまな理由で学校から姿を消していた。(大雨で流された、とか転売されていた、とか)
また、現地の生活を体験ということでホームステイをさせてもらった。世界ふしぎ発見!に出てくるような高床式住居に、お風呂は井戸での水浴び。暗くなったら寝て、朝日と共にお母さんが飼っているニワトリを絞める声で起床。そしてそのニワトリちゃんがふんだんに使われた朝食を食べ、一日がスタート。日本人の若造のために、お父さんはチャリで発電機を持ってきてくれて、少しくらい暗くなっても電気が使えた。途中で気が付いたのだが、この街では1泊2〜3ドルあればホテルに泊まれるのに、このホームステイには1泊10ドル支払われている。私たちは5人で2泊したので、これだけで100ドルの収入だ。彼らにとっては大金で、国際交流だとか日本人と交流だとかは二の次で、お金のためにやっているのだと気が付いた。現に、おうちの子供達はいっしょに食事を囲むことはなく(文化的に客人といっしょに食事をするのは失礼で、客人が休んだあと子供と女性が食べるらしい)、その子供たちは、私たちが食べたガリガリのニワトリを食べる機会なんてないのだ。

他にも様々なことをこのプロジェクトを通して経験して、この世界のいびつさ、一人の人間のできることの小ささ、とにかく私はなんと傲慢で甘い考えを持っていたんだろう、と思い知らされた。カンボジアからの帰り、乗り継ぎで寄った韓国の明洞のKFCで辛いチキンバーガーを食べて、ジャンクな味と肉の脂に先進国を感じた。先進国で不自由なく育った私に発展途上国の他の人を助けるなんて、無理なことではないだろうか。

そんな思いがぐるぐると頭の中を回ってるさなか、あの地震がきた。

揺れた時はこんなに大変なことになるとは思っていなかった。大学の建物におり、放送で中庭に避難するよう言われた。階段からチラッと窓の外を見ると、大学のプールがお風呂みたいに溢れていた。過去に別の地震を経験した人だろうか、怖くて取り乱している人もいた。
雪が降ってきた。
その時私が一人暮らししていたアパートはオール電化だった上に、前日まで海外にいたので本当に食料がなかった。仲の良い先輩の家にとりあえず避難することにした。電気がないので信号もつかず、車は大渋滞。電気がないなか、先輩のご家族が食事を作ってくれて、ろうそくの明かりで大人数でご飯を食べた。
前日までカンボジアだったので、日本の味、しかも一人暮らしだとなかなか経験できない家庭のあったかい味に泣きそうだった。さらに、分厚い布団にお母さんが湯たんぽを入れてくれて、暖房がなくてもあったかかった。

仙台の家族は大丈夫だろうかと心配になった。
我ながらありえないことだが、私は韓国で泊まったホステルにガラケーを忘れていた(…)ので、先輩に電話を借りて家族に連絡するも、全く繋がらない。
夜、寝る前、ラジオからは「東北に大津波が来ました。仙台の津波の高さは10m…海岸には多くの瓦礫や遺体…」と聞こえてきて、不安が襲ってきた。津波の高さが10m?想像がつかない。一体どこまで波が来たんだろう。

ことの重大さがわかったのは、電気が来てから。電気が来てテレビがパッとつくと、中野栄から多賀城にかけての45号線がめちゃくちゃになっているのが映っていた。次の場面も、その次の場面も、見たことがあるところばかり。震災の前日に降り立った仙台空港も津波を被っていた。ショックだった。家族、友人と連絡が取れない、無事が確認できないというのは本当に不安だった。その後、友人たちとはFacebookやTwitter、MixiなどのSNS、家族からは揺れた3〜4日後に電話が来て無事が確認できた。正直あの時のことはパニクってて覚えていないことが多いが、家族から無事の連絡が来るまではすごく長い時間に感じた。

しばらくして、バイトも行けず暇を持て余した大学生だった私は、この震災のボランティアに参加した。といっても現地に行く人ではなく、避難所で必要なものを聞き取り、買い出しに行くことと、各地から支援物資が集まるのでそのお礼と仕分け作業をやっていた。「阪神淡路大震災の時お世話になったから」と神戸などとても遠いところからトラックで駆けつけてくれた人もいた。一般の方からよくもらったのは毛布とかタオルだったかな。結婚式の引き出物とかでもらう箱に入ったタオルがたくさん来ていたので、私たちはひたすら箱やフィルムを外して避難所の人がすぐに使えるようにした。がんばってくださいとか、手紙が入ってることも多かった。買い出しは、ほとんどすっからかんになったスーパーを何軒も回って被災地に送るオムツや食料品を買った。大学生が爆買いしてるので、買い占めだろう!と怒鳴ってくる人もいた。怒鳴ってくる人には「避難所に送るんです」と言い返すことができたが、大体は白い目で見られるだけだったので気まずい思いをした。当時、「福島の原発がヤバいらしい」と噂が流れていたので、ボランティアの大人たちからはくれぐれも雨に濡れないように、と厳しく言われていた。雨、それから外に出ることも少し怖かった。

それからのことはあまり覚えていない。徐々に普通の学校生活が始まり、何度もくる余震に慣れていった。テレビは全部ぽぽぽぽ〜んだし、計画停電も何度かあったと思う。テレビでは「頑張ろう東北!」と流れていたし、よく被災した人たちの特集が組まれていた。親兄弟を亡くした、子供を亡くした、ばあちゃんを残して逃げてしまった、そんな話をテレビや実際の知人から聞くたびに、悲しい思いでいっぱいになった。それまで、全国放送で仙台が取り上げられることなんてなかったのに、多数取り上げられるようになって、あぁ、私って被災地に住む被災者なんだな、とどこか他人事のように思った。私はじわじわと被災者になったんだと思った。

この時、短い期間で「助ける側」と「助けられる側」を経験して、人生はちょっとの歯車の狂いでどちらにでも転ぶことがある、ということを痛感した。またあの立ってられない揺れが来て、誰かに助けてもらうことがあるかもしれない。ならば、ちょっと自分に余裕があるなら、他の人を助けたい。私は津波を被っていないし、なんなら3/11当日は温かいご飯をお腹いっぱい食べて温かい布団で寝た。それは本当に偶然なのか奇跡なのか、周りの人が優しかったからだ。多くの人に助けてもらって命があるんだなと実感している。残った私たちは、小さいことかもしれないけど、時々こうやって震災の話をして、忘れないことが大切なのではないか。改めて、震災から10年目を迎えてそう思ったのであった。

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