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賢者タイムにおける賢者性が小説に与える影響について―若しくは、酷く局地的な村上春樹考―

飲み会をした。先週のことだ。
取引先との飲み会だが、お互いの会社の20代後半~40代前半の中堅職員で集まった、仕事とプライベートの中間みたいな会。
当日集まったのは男性5人、女性3人。まあまあ和気藹々と飲み会は進んだところで、男の中の一人が最近引っ越しをしたという話になった。

「会社に近くなったから自転車で通うようになったんですけど、電車乗らなくなったら本読まなくなっちゃいましたね」
そう言う彼にどんな本を読むのか聞くと、
「村上春樹だけは全作品読んでますね」と言う。
それを受けて、別の男が声を上げた。
「僕も村上作品全部読んでます」
するとまた、別の男が声を上げた。
「え、僕も全作品読んでますよ」
そして私。
「デビュー作から『ねじまき鳥クロニクル』までは読んでます」
最後に残った男性。
「『ノルウェイの森』だけ読みました」

なんと、男性5人全員が村上作品を読んだことがあり、その内3人は全作品読んでいるという。
ちなみに、女性陣は誰一人として村上作品を読んだことがないらしい。
当然の流れとして、一人の女性から
「村上春樹ってそんなに面白いんですか?」という質問が飛んだ。
そして、男たちが全員一瞬黙った。

いや、そんなに皆読んでるなら素直に「面白いですよ」でいいだろ、と思われるかもしれないが、そうもいかないのが村上春樹読者。
村上春樹を全部読んでるような男に、村上春樹を素直に褒められる感性など備わっているはずがない(暴論)。
そして、村上作品を全部読んでいる男が3人もいる場で、私や『ノルウェイの森』しか読んでないヤツが村上春樹を評することは許されない、多分。

結果、一瞬の沈黙の後、村上作品完読者のうちで一番年長の男性が、
「男にはね、ああいうのを良いと思う時期があるんだよ。もしかしたら女性には分からないかもしれないけれど…」
というめちゃめちゃ歯切れが悪く、かつ村上作品を全く読んだことがない人には絶対に伝わらないセリフを吐き、この会話は終わった。

これがX(Twitter)だったら「小説読むのに男も女も関係あるか!」みたいなお叱り引用リポストが飛んできそうだが、飲み会で正論を吐くことはこの世で最も恥ずべき行為なので看過願いたい。
ただ、上記のセリフを私が否定しなかったのは、(言ったのが年長者だからというのもあるが)何となく思い当たる節がないわけでもないからである。

というのも、私は村上春樹を「とてつもなく賢者タイムの表現が上手い」作家だと思っている。
賢者タイム、ご存じだろうか?知らない人はググってほしい。ちょっとえっちな言葉なのでお気をつけて。

村上作品には、射精シーンが多い。古のネット民に「村上春樹と言えば『僕は射精した』」とイジられるぐらいに射精シーンが多い。
これがまず珍しい気がする。ベッドシーンがある小説は数多あれど、「射精した」と直接表現されている小説はそんなに多くないだろう。
イメージの話で恐縮だが、小説のベッドシーンって挿入まではやたら丁寧に描写されているのに、挿れてから終わるまでの描写やたらあっさりしてない?
でも村上春樹はそうではない。ちゃんと「射精した」と書いてあることが多い。そして、射精のタイミングが分かるからこそ、賢者タイムに入った登場人物の気怠さと憂いが引き立つのだ。

例を挙げよう。
以下は『ねじまき鳥クロニクル』の第2部の描写の引用である。
(あまりネタバレ的ではない引用だが、これから作品を読む人で、気にする人はここで読むのを中止してほしい)

でも僕にはもう何を考えることもできなかった。そして射精した。

僕はシャワーを浴び、体を洗い、精液のついた下着を手で洗った。やれやれ、どうしてこんなややっこしいときに、わざわざ夢精なんかしなくちゃいけないんだろう。
僕はもう一度新しい服に着替え、もう一度縁側に座って庭を眺めた。太陽の光が、厚く繁った緑の葉陰でまぶしく踊っていた。幾日も続いた雨のおかげで、鮮やかな緑の雑草が地面のそこかしこに頭をもたげ、それが庭に微妙な退嬰と停滞の影を与えていた。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル―第2部 予言する鳥編』

賢者タイムに、庭に退嬰と停滞の影を与える雑草に目を奪われるの、めっちゃ分かるよね?
いや、実際に体験したことは無いけど。賢者タイムに太陽の差す庭を見たら雑草に目がいきそうだよね?分かるー!
って言う感覚が、女性に分かるのか分からないのか、男性には分からないのである。賢者タイムに近い感覚って思いつく限りでは無いし。
結果として「男にはね、ああいうのを良いと思う時期があるんだよ。もしかしたら女性には分からないかもしれないけれど…」を否定できない私である。

恐らく、逆に女性の方が強く共感できて私には拾えない表現だってこの世にはわんさかあるのだろう。そういうのに私が気付かないときにはぜひ教えてほしい。
めっちゃ馬鹿にしてくれていいから。


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