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ホルマリン液に写る自分を見つめ直す。

「さよならを教えて」について書こうと思うが、出てくるのはつぎからつぎへと自分のことばかり。私は「さよならを教えて」について書きたいのか、「さよならを教えて」を書いている自分を書きたいのかこれでは分からない。
だからちゃんと「さよならを教えて」について書きたい。
私はなぜ「さよならを教えて」を書いている自分を書くようになってしまうのか?


私は読書感想文を書くのが得意だった。5枚でも10枚でも、書くのを苦に感じたことはない。もちろん思い悩んで書いてはなくただ勝手に頭に思いつく言葉をつらつらと書いていただけだから、むしろ書くことは楽しかった。
そして気がづいたことがある。私は読書感想文に感想しか書いていなかったのではないかと。一般的にはある程度あらすじを書き、その主人公や作者の視点になり、考察をしていくということを“読書感想文”と言っているのではないだろう?もしそうだとしたら私は読書感想文を一度も書いたことがない。でもなぜそんなに私は自分の感想をスラスラと書けるのか?それは分からない。


話は脱線してしまったし、またこれは自分語りを始めているだけなんだろう。
そうだな。私とは違う良い文章を書く人はおそらく「さよならを教えて」の主人公に感情移入ゲームをプレイしているんだと思う。私は私としてこのゲームをプレイしていた故、安心感や既視感を感じてこのゲームを好きになった。だから「さよならを教えてに」ついて良い文章を書く人は「さよならを教えて」を好きだなんて一言も言わない。私は「さよならを教えて」を好きだからこそ自分語りをしてしまうのか?でも「さよならを教えて」が好きなんだったら「さよならを教えて」についてもっとその作品の私の思う良さを語ってもいいんじゃないか?私は頭が悪く、愚かな者なんだと思う。だから、私はさよならを教えての良さを伝えられないし、進めることなんてできないんだ。こういう過度な自己嫌悪などがさよならを教えての主人公に似ているではないか。だから、だから私は主人公に自分を重ねて自分は正常な人間だ!おかしいのはこの主人公だ!と自分を正当化したいだけなんだと思う。このゲームをすると自分が少しだけまともな人間に感じられる。空想の中の女の子をひたすら犯す。犯す。犯す。現実に触れれることのできない臆病者だから。いや、それは主人公の宿命なのか。主人公はそれを望んだ?私の文章は分かりやすくつまらない。私は私が嫌になる。私は目黒御幸が好きだ。私に似ている。目黒御幸がだいすきだ。私=主人公として主人公=目黒御幸だとする。私も主人公も恐れることを恐れた。新しいものは嫌いだ。屋上のカラス、人懐っこい猫、操り人形。図書館には自分がいた。人間が苦手で誰とも関わりたくない。でも人を求めている。自分を理解してくれる人を求めている。哀れだと思った。目黒御幸のことを。自分と似ていると思った。わざと強い言葉をいい他人を試す。これから先に私が相手を傷つけることを踏まえて、私という人間のチュートリアルをまずクリアしてほしい。それをクリアできれば簡単だ。誰にだって少しくらい問題はある。普通の人間と呼ばれる物は感情のない人形なんだと思う。肯定も否定もしない。だから怖い。いや、私は極端すぎるのかもしれない。それが病気なんだと思うけれど。


目黒御幸は優しかった。私という人間を否定しない。むしろ私自身が目黒御幸自身を肯定していた。だからそれが心地よかった。目黒御幸以外のキャラを私はまだプレイしていない。プレイすることが難しい。目黒御幸という人間でしか私は落ち着かない。私はこのゲームの主人公になりきっても、私自身としてゲームをやり直しても恐らく目黒御幸を選ぶだろう。
目黒御幸は初恋です。

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