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そこに、愛はあるんか? いえ、友情でしたら。

身も蓋もない話をしよう。

シェイクスピアは読むもんじゃない。

戯曲ってつまりお芝居の脚本だから、当然読むより見る方が面白いに決まっている。シェイクスピア、37戯曲。400年も昔の人だから、実は40作品あるとかなんとか刻一刻と状況は変わっていくけれど、著作がいくら増えようと揺るがないものは揺るがない。
読むより、見ろ。

でもまぁ、「読んでも面白いシェイクスピア作品」を挙げてみるぐらいならできるわけで。
37戯曲をとりあえず全部読んだ結論はこの2作品だった。

『ハムレット』と『テンペスト』

後者はシェイクスピア最後の戯曲と言われている。悲劇的要素と喜劇的要素を複雑に組み合わせたロマンス劇と呼ばれるジャンルで、段違いに作り込みがしっかりしている。
そして前者はもう、シェイクスピアといえばこれだよね、と誰もが思うのではないだろうか。
え、ロミジュリ?知らん。

さて、タイトルは知っていても、内容を知らない人はめっちゃ多い。だからめっちゃ簡潔に説明しようと思う。
ハムレットはデンマークの王子。父王の崩御を受けて留学先から帰国した。帰ってみたらあらびっくり。叔父のクローディアスが王座を継承してたどころか、母ガードルードと再婚までしていたのだ。
めっちゃ胡散臭ぇ。
誰もが思う。当然ハムレットも思った。ほとんどの殺人事件は、それにより最も利益を受ける人間が起こすのがサスペンスの常識である。
父ちゃんが亡霊になって現れ復讐をそそのかしたり、まぁ展開は動きに動くわけだが、そこは割愛。そして最終的にみんな死ぬ。それもまた、シェイクスピア悲劇のお約束なのだ。

さてこのハムレット、復讐劇なのか否かで議論が分かれる。父の復讐も主線なのだが、最後の最後まで「悩める青年」だったハムレットの懊悩が主題ではないのか云々だ。
復讐劇か、違うのか、それが問題だ……ってやかましいわ。だったら全然違うところから見てやろうじゃないですか。ということでどーん!

ハムレットは友情物語である。


友情というならば相手役が必要だ。その名もHoratio(ホレイショー)。ハムレットの学友で、先王の葬儀のためデンマークへ帰国する。
帰国後出会った二人の会話がこれだ。

ホ「御機嫌よう、殿下」
ハ「元気で何より。ホレイショー、それとも俺の頭がどうかしたか」
ホ「ご覧のとおり、殿下の忠実な下僕です」
ハ「友達じゃないか。お互いに。それにしても、ホレイショー、なんでウィッテンバーグからここへ?」
ホ「ついさぼり癖がでまして」
ハ「そんなことは君の敵が言っても本気にはしない。それに、自分で自分をけなすようなことを言っても俺の耳は信じない。さぼり癖が聞いて呆れる」

(ちくま文庫・松岡和子訳より 一幕二場)

この2人、ごっつ尊い。まず、デンマーク王子のハムレットと、なんの肩書きもないホレイショーが仲良くしているのが異常ではないか。何度もいうが時代は400年前なのだ。互いに尊重しあってなおかつ軽口も叩ける友人なんて、現代でもなかなか手に入らない。
ハムレットの学友としては他に、ローゼンクランツギルデンスターンという2人がいるのだが、彼らは敵側のクローディアスに唆されてハムレットに探りを入れる側なので、この対比構造もまたホレイショーへの信頼感を際立たせている。そしてハムレットは、ホレイショーと行動を共にしていく。

愛と友情の重さはいかほどか。「友情を越えた愛情」って表現はよく聞くし、世間様からは愛の方が重いと認識されてるんだろうけど、じゃあそれって、誰が決めたん?
人間は子孫を残すために求愛行動をとるわけで、愛は生理的欲求なわけだ。では友情は? 欲求からくる何かではない精神的な結びつき。どっちかを落とすつもりはないけどさ、友情だって愛と同様に尊いものだと思うのだ。
最終幕、死の直前にハムレットは生き残ったホレイショーに言う。キリスト教は自殺を禁じる宗教だ。しかしホレイショーはハムレットの後を追う気でいた。
ああ、ホレイショー、事情が不明のままでは俺の死後、どんな汚名が残るか分からない。少しでも俺を大事に思うならしばらくは天に昇る至福をあきらめてくれ。苦しいだろうが、すさんだこの世で生きながらえ俺のことを語り伝えてくれ」(五幕二場)
まどろっこしい言い回しをするシェイクスピアのことだ。多少の曲解は許してくれよう。解釈違いもどんとこいである。
この長ったらしいセリフは、ハムレットが最後に残したホレイショーへの願いだと思っている。
生きろ。

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