見出し画像

よく燃える推しを思う

宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)

推しが燃えた。
主人公のあかりが推していたのは某アイドルの真幸くん。彼がファンを殴ったらしい。

推しはいますか。私はいます。
推しが燃えたことはありますか。私はあります。ファンは殴んないけど。

スポーツ選手を推してると、割とよく火事現場に遭遇する。だよね。だって競技には勝ち負けがどうしても付随する。
ライブ後に「あのダンスのキレが悪かった」と言う人は絶滅危惧種レベルの少数派だろうが、試合後に「あいつのせいで負けた」と騒ぐ人は結構いる。わたしの推しの名前で検索すると、結構な頻度で小火が起きている。
あかりが経験した「非日常」は、私にとっては割と「日常」だった。だから余計に興味が湧いた。さて、推しが炎上したドルオタと、よく推しが燃えてるスポーツオタク。二人のオタクが取る行動は、どう違うんだろうか。

結論から言おう。変わらん。
推し方が似てたからなのかもしれない。あかりは推しのラジオ、TV、雑誌のインタビュー。片っ端から文字に起こして推しを「解釈」し、「理解」しようとした。
そこまで極端じゃないけど、わたしも似たようなもんだった。推しの根底にある何かを解りたいと願う。一つ違ったのは、さっさと匙を投げたことだ。
大抵の人間は矛盾するのである。そして深く考えずに言葉を発することもままある。発言を切り取って性格をカテゴライズしていくと、一貫性の無さにげんなりするからだ。わたしは思う。
あかりよ、その推し方、めっちゃしんどいで
ファンを殴るという推しの行動は、あかりの組み立てた人物像に思いっきり相反していた。そうなってしまったらもう、「深くは語らない」を選ぶしかないのである。間違った認識や情報を正し、人格否定を糾弾する。あかりにも、わたしにも、できることはその程度なのだ。結局のところ。

主人公のあかりは、推しを「背骨」だと言った。言い得て妙やな。わたしは思う。
日常の欠陥を埋めるもの、それが趣味だった。良くも悪くも、趣味以外の何かで埋める方法を知らない。致命的な視野の狭さは彼女自身の生まれ持った何かに起因するものだけど、具体的には語られなかった。
家族の不仲や社会に馴染めない劣等感が、あかりの日常の欠落をどんどん大きくしていく。その分だけ、推しの比重も大きくなる。
そこで、推しが燃えた。

ままならない日常で背骨までもが揺らいだら、どうなるんやろな。残念ながらわたしにはわからない。彼女がどうなったのかも、最終的にはわからぬままだ。まぁこんなもんだよな。何せ芥川賞候補作なのだ。かつては「なにも起こらない小説」と言われてるらしい、吉田修一『パーク・ライフ』(文藝春秋)が受賞してたわけだし。ごめん、一昨年読んでみたら、ほんとに何も起こんなくて笑ってしまった。

わたしとは別個体のホモ・サピエンスがどこまで共感できるかはわからないけど、是非とも主人公のままならなさを追体験して欲しい。身も蓋もない結論かもしれないが、推しが燃えても燃えなくても、結局生きるのは難しいのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?