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天才とギフテッドの分岐点渡辺茂夫

アメリカの政治トランプニュースと、昭和30年(1955年)の天才ヴァイオリニストでは、まったく相容れないものがあるが、なにかにつけ、アメリカ文化の風向きで左右される日本社会は、その時代差を勘案しても、やはりその呪縛から逃れられない、という視点からみると、同一線上の話しと、とらえることができる。そんなことを感じたので、この話題を掘り下げてみた。

世に云う「天才」とは、超越した感覚の持ち主、ということで自分たちとは一線を画して崇拝されているが、この渡辺茂夫の履歴を読んでみると、その一般と天才との狭間で葛藤していることが判る。
それがどんなことかといったら、「目上の人」に対しては意見だとか批判など、絶対しないという不文律が浸透しているが、天才であるがゆえに、その常識を超えて、言語箍をはずしてしまうという、失点を犯す場合がある。渡辺茂夫の場合が、まさにそれだった。

いまだったら、そんなことより天才才能としての逸材を評価して、世は受け入れるが、その時代背景(アメリカクラシック音楽界)では、それが通用しなかったという典型例にも見えた。

同じようなことはこの日本でもあり、ビートルズが全盛だったころ、日本でもコピーバンドが沢山あった。あるテレビ番組のオーディションで、そのビートルズコピー曲を演奏したアマチュアバンド(プロ予備群か)が、リズムの取り方、が反転だと指摘された。簡単に云うと「洋楽テンポじゃなく民謡拍リズム」だと、辛辣な一撃を下した。(今でもそのことを理解しない洋楽日本人は多い)。

おそらく同様の指摘をされた渡辺茂夫は、落ち込んだに違いない。(クラシックの場合では、ヨーロッパ奏法が主流で渡辺茂夫のバイオリン奏法はまさにそれで育てられた)

さらに、天才特有の、自惚れに近い自説(完全主義)は、相手が誰であろうと、それを曲げないという姿勢は、音楽云々を語る前に、人としての人格形成をまず疑う、という世間体がある。

以前、このnote記事でも書いた「ギフテッド」特集は、今でも来訪者があって、読まれている。


そうした、社会から外れた子供たちに対して、一定の理解が示されていることも事実だが依然、狭き門、というのが実体らしい。

そんなことを考えたら、ついつい令和の渡辺茂夫を想定してしまうが、同一線上に天才ピアニスト「梯(かけはし) 剛之」「辻井 伸行」などがいた。

梯 剛之 1977年8月2日生 2000年
ショパン国際コンクールワルシャワ市長賞受賞。
プラハ交響楽団、国立サンクトペテルブルク交響楽団、
フランス国立管弦楽団、
ドレスデン歌劇場室内管弦楽団、
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団、
マーラー・チェンバー・オーケストラ、スロヴァキア・フィルハーモニー、
仏国立ロアール管弦楽団、

辻井 伸行(1988年〈昭和63年〉9月13日 - )は、日本のピアニスト、作曲家。2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、優勝
2009年(平成21年)6月7日、アメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝(中国人ピアニスト張昊辰と同時優勝)。日本人として初の優勝である。

そうはいってもすべては結果論であって、不遇にして世を去った渡辺茂夫のアメリカの活躍と、日本での活動は、どう評価されるべきだろうかと思いを巡らす。

続いて「渡辺茂夫」自伝を書くが、本人がそれを望んだ、というより、周りの良き理解者、が天才であるがゆえに、その場に留めておく逸材素材ではないと、率先して「アメリカ」に送り込んだのが、果たして正しかったのかのかという問いは、誰にも判らない。
(私の観点からしたら、なるべくしてなったアクションであり、よくいう「運命」論になるが、そのポストに収まるには、敢えて自分も、その方向に進む、というチョイスをしていることがままある。それが天才たる所以)

神童 渡辺茂夫の半生 -誰も天才をどう育てるかわからなかった-
2021年3月1日 by salthouse 
戦後まもない昭和30年、当時14歳の天才少年ヴァイオリニスト、渡辺茂夫のジュリアード音楽院への最年少特待生留学が決まった時点では、周囲にいた誰もが善意と祝福の気持ちでいっぱいだったと思う。それなのに、なぜこのような悲劇がおこってしまったのだろうか。その理由を端的に言えば、後にヴィオラのナターシャ・ケントさんが言うように、「誰も天才をどう育てるかわからなかった」のではないだろうか。

渡辺茂夫のCD制作に尽力した藤沼幹雄氏はこう述べている。「茂夫くんはアメリカに行く必要はなかった。それはこのCDを聴いてもわかる。残念なことには、日本では今でもそうだが、外国で箔をつけてもらわないと通用しないという後進性があった」確かに、世界の巨匠ハイフェッツやオイストラフ、マルコム・サージェントによって評価され、お墨付きを与えられるまで、日本人の音楽評論家の評価には「子供のわりに上手」というようなニュアンスが透けて見える。

日本の中学校を中途退学して、たった一人でアメリカに渡った茂夫。天才少年ヴァイオリストということで大いにもてはやされ、カリフォルニアで2ヶ月間の語学研修と地元ミュージック・アカデミーの夏期講座を終える頃までは茂夫もまだ元気いっぱいだった。

しかし、いよいよニューヨークに移ってジュリアード音楽院に入学したあたりから孤独になってしまった。最大の不幸、歯車の狂いは、思い切って飛び込んだ懐とも言えるジュリアード音楽院イヴァン・ガラミアン教授とのヴァイオリン奏法の相違であるだろう。

しかもガラミアン教授は強権的に生徒を自分の枠にがっちりはめるタイプの教師だったという。小さくても既に完成された技術を持つ茂夫にとっては師との奏法の違いは、ヴァイオリニスト江藤俊哉氏の言葉を借りれば、まさに「生か死か」なのであった。

また、茂夫は当時から「技術的には完璧だった」(前述ナターシャ・ケントさん)というから、自分の気持ちや意見を抑えて師に従おうとすれば、今度は音楽的に混乱してしまうだろう。

小さい子供の頃から茂夫は自分が聴きに行った演奏会におけるプロの演奏を批評するようなことを日記に書いている。小さくても一人の演奏家として先輩音楽家たちの演奏を批評する冷静な目を持っていたのだった。

通常なら思春期の少年らしさということで済まされるであろう理屈っぽさや大人への生意気といえるような態度も、彼の場合は他人の演奏への指摘が的確で、高い演奏技術を持っていたため、大人に対等に見られ、過剰防衛され、周囲との軋轢を生んだということもあるかもしれない。

年上の学友たちは教授に賞賛される彼をライバルとしてみていただろうし、その教授も自分の教えに対する少年の懐疑的な目を感じ、持て余しやっきになったことだろう。音楽至上主義のジュリアード音楽院の中では茂夫は周囲の嫉妬や意地悪を相当経験したと思われる。さらに都合の悪いことに、日米協会が精神状態がよくない茂夫に世話した日本人の精神科医でさえ、後のインタピューを聞く限り、茂夫に対してあまり大らかではなかったように見うけられる。

普通に考えても、当然文化の違いや言葉の問題もあっただろうし、この年代に誰もが経験する情緒的問題や、もっと普通の中学生らしく同年代の友達と遊んだり勉強したいという気持ちもあっただろう。戦争の傷跡がまだ癒えない当時は、よほどのバックボーンがない限り今以上に人種差別もあったことだろう。また、ガラミアン教授との関係がうまくいかなかったことは、周囲のいじめを加速させたと思われる。しかも、そのガラミアン邸で一年間も下宿していたのだから、その孤独と苦悩はどんなに大きいものだったか。

まだ子供だった茂夫。そんなことがあっても、せめて茂夫を守ってくれる大人がついていれば。しかし、異国の地で親身になってくれる人は、いても短期間だけだった。どんなに善意溢れる人であっても他人に割く時間と労力には限りがある。
誰もがみんなそれぞれ自分のことで忙しい。実際アメリカに渡った当初は、音楽好きで茂夫の能力を高く評価してくれている裕福なアメリカ人のところにホームステイをしていたので居心地はよかったと思われるが、その後は家でヴァイオリンの練習ができないステイ先もあったり、食事も喉を通らない悲しい思いをしていたに違いないステイ先(ガラミアン教授宅)もあったりと、居心地は始めとその後では雲泥の差だったと思われる。

そんなに辛い思いをしているのに、どこの家庭ともうまくいかない奇妙な子供と突き放されてしまう。茂夫少年には、彼の才能をよく理解し応援してくれて、なんでも相談できる親代わりの優しいホストファミリーと温かい部屋と家庭的な食事が必要だったのに。

茂夫を送り出す両親の条件は、期間は二年であること、ホームステイすること、アルバイトはさせないこと、の3点だったというが、どれも守られなかった。特に、最後の方は古いアパートの3畳ほどの狭い部屋に一人暮らしで、月に120ドル必要なのに、日米協会から25ドルしか支給されなかったため、ガラミアン教授の紹介で当時プロオケの登竜門のようなセミプロのオーケストラで、月に75ドルにしかならない薄給のヴァイオリン演奏のアルバイトを、他の学生たちに混じってやっていたという。
アメリカに来る前から世界的巨匠に認められ、日本でもアメリカでも既にプロのオーケストラで堂々ソリストをしていた茂夫がなんという情けないことだろう。

昭和30年頃のニューヨーク。古いアパートで一人暮らしをしている茂夫少年は寒い冬に暖房器具などで部屋を温かくして自分を守る術も知らなかったに違いない。今と違い、日本との連絡は手紙で片道2週間もかかった時代であった。茂夫を守ってくれる人はおろか、話をきいてくれる友人も相談できる大人もおらず、食べるにも困り、住環境も悪く、師匠とも折り合いが悪くなり進退極まってしまった茂夫。

事件の起こる3日前、茂夫は思いつめ最後の力をふりしぼって日米協会に行き、日本に帰りたいと言ったが、聞き入れてもらえなかった。次の日もまた行ったが、また取り合ってもらえなかった。二日も続けて帰国を要請に行ったのは、どれだけ切羽詰まり、勇気と気力を振り絞ってのことだったか。

その前からも茂夫のことを心配した両親が度々日米協会に帰国を要請していたが、協会と学校側、それに日本人精神科医も加わって、茂夫は日本嫌い、日本に帰りたがっていない、アメリカでもう少し音楽の勉強を続けたほうが本人のためなどの理由で、日本に帰してはくれなかった。
たしかに一時期いろんな理由から、その頃思春期の少年の精一杯の抵抗で日系のホームステイ先を嫌ったり、日本語を話さないようにした時期はあったが、それは階級社会である当時のアメリカで、敗戦国の人間としてカテゴライズされ差別されるのを嫌ったただけかもしれないし、思春期の少年が自分の気持ちをうまく伝えられず、たまたま本心とは逆のことをいうことだってあると思う。

数ヶ月前とは気持ちが変わることだってある。それなのに茂夫は日本嫌いだから両親の元に返さないというのは、とても短絡的表面的な言い訳に思われる。茂夫を日本に返さなかったのは、むしろ大人たちがメンツを保つためではなかったか。

こうして八方塞がりの茂夫は同じアパートの学生に睡眠薬をチラつかせてこれから飲むと言っていたらしい。しかし、そこまでして必死にSOSを出しても、最後まで茂夫のことを心配して部屋を訪ねる者はいなかった。
その日の夕方、茂夫は睡眠薬を飲んで自殺未遂事件を起こした、ということになっている。ただ、真実はわからない。

なぜなら、自殺未遂で済ますには不可解なことがある。第一発見者は誰で、いつ、どういう経緯で発見し、その時茂夫はどういう状況だったのか、怪我などはしていなかったのか、部屋を荒らされた形跡などはなかったのか、病院に運んだのは誰なのか。肝心の事件の核心はこの本にはなにも書かれていない。

ヴァイオリニストにして医師でもある松井一朗さんは、睡眠薬を飲んで脳の表層が破壊されることはないにもかかわらず、茂夫の脳の表層は破壊されていたという。
また、高熱のために脳全体が煮えてしまったのだという。ただ、それならばなぜ、後頭部に大きな傷が、縦に横にあるのだろうか?また、薬を飲んで7時間以上経ってから胃洗浄したというが、まったく吐き出させることも尿から出すこともできなかったことにも違和感を感じる。父親の季彦さんは、茂夫が暴力を受けたと信じて疑わなかったという。

このことについては、藤沼幹雄氏も茂夫のCD解説の中で、次のように述べている。「この事故についてはアメリカ側の推測が述べられているが、当時の日米の微妙な国際関係から解明されずに終わってしまったのであった。」

こうして日米協会は箝口令を敷き、警察は早々に捜査を打ち切った。そして、日米協会はこのことをなかったことにしようとし、日本のメディアはこれは失恋による自殺未遂だと書き立て原因を矮小化させた。しかし、本気で茂夫の失恋が事件の根本的な原因だと思っていたものは誰もいなかったのではないか。2年前、授業料全額免除、生活費も様々な寄付から賄われて鳴り物入りでアメリカに渡った天才少年ヴァイオリニストの茂夫の肩には戦後の日米関係にも関わるような大きなしがらみがのしかかっていて、簡単に挫折や方向転換を認めることがむずかしかったのかもしれない。どんなに本人が帰りたいと願っても両親が日本に帰らそうとしても叶えられない、抗し難い事情があったのだと思われて仕方がない。

事件の後、アメリカで医学研修生をしていた若井一朗さんが駆けつけて、ただ一人、彼の全面的な善意と献身によって茂夫は日本の両親の元に送り届けられた。若井さんは、日本にいるころ、名古屋交響楽団のコンマスとして当時12歳の茂夫と共演したことのある人である。今にして思えば、もしも事件が起きる前に、茂夫と若井さんがアメリカで交流していればどんなに良かったかと思う。音楽愛好家であり医師であり日本にいた頃茂夫と共演したこともある若井さんなら、兄のように親身になって茂夫のことを考えてくれたと思うからだ。
あるいはもしも茂夫がアメリカに留学するのではなくもう少し大きくなるまで両親のもとで日本で教育を受けながら、世界的なコンクールなどに挑戦していればどんなによかっただろう。
あるいはアメリカではなくヨーロッパだったら、いやアメリカであってもせめて強権的な「ガラミアン」教授ではなく、もっとおおらかに茂夫の才能をのばしてくれる先生の門下にはいっていれば、もしくはもともとの約束通り2年で帰国していれば、また最後に茂夫が日本に帰りたいといった時、日米協会がその気持ちを真剣に受け取ってくれていれば、当時シアトルに住んでいたという茂夫の実母と連絡をとりあっていたら、、などと、とめどなく考えてしまう。

渡辺茂夫は父の季彦さんの元に帰った後、40年以上献身的介護を受け、1999年58歳で天国に旅立った。
そして、父の季彦さんはその後10年以上生きて、2012年103歳でなくなったそうだ。渡辺茂夫少年の演奏は今はyoutubeでも聴くことができるので、本書を読むと同時に、残された音源を聴いている。

綺羅星のごとく駆け抜けた半生。そしてその後止まってしまった40年余りもの長い長い時間。今となってはこのような音楽を残してくれたことに感謝しつつ、渡辺茂夫さんのご冥福をお祈りします。(敬称略)




天才ヴァイオリニスト 渡部茂夫

東京生まれ。音楽家一家に生まれ、茂夫の生母・鈴木満枝はヴァイオリニストだった。4歳より、母方の叔父の渡辺季彦が経営する音楽教室(渡辺ヴァイオリン・スタジオ)でヴァイオリンを学び始める。その翌年、両親の離婚にともない、そのまま渡辺家の養子となった。
天才少年の誕生1948年(7歳)に芝白金小学校に入学するが、早くもこの年に、巖本真理より音楽的才能を絶賛され、12月に最初のリサイタルを、翌年以降も毎年1回の定例コンサートを行う。
また、1949年にはヴァイオリンを弾く少年役として映画「異国の丘」に出演している。早くも創作面にも関心を示し、音楽理論を石桁真礼生に師事しながら作曲活動や詩作にも着手し、小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ、ヴァイオリン・ソナタを作曲[1]。その作品はクラウス・プリングスハイムによって高く評価された。
渡米1954年(13歳)に暁星中学校に進学。同年、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮により、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏。
来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏を行う。5月、渡辺季彦の奔走により、帝国ホテルにおいて、来日中のヤッシャ・ハイフェッツに面会し、演奏を披露、ハイフェッツに深い感銘を与え「百年に一人の天才」と評される6月にハイフェッツからの招待を得て、両親に促されて渡米が決まる。

1955年3月、ジュリアード音楽院院長より、「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により」無試験入学が許可される。各方面の支援者(アメリカ軍属、朝日新聞社、その他の個人)から経済的援助を受け、期限は2年間、演奏旅行には連れ出さないとの条件により、7月に飛行機で渡米。
輝かしい未来(14歳)カリフォルニア州で語学研修を受けるかたわら、奨学金を得て地元の夏季音楽講習会にも参加する。
早くも天才ぶりと品のよい物腰から脚光を浴び、とりわけハンガリー人ピアニストのジェルジ・シャンドールに目をかけられた。8月末にはモーリス・アブラヴァネルの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏して、サンタバーバラ市の地元紙で絶賛される。

講習会の告別演奏会にも出席して、自作のヴァイオリン・ソナタを披露する。9月にニューヨークに到着し、ジュリアード音楽院でペルシャ出身のヴァイオリニストイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事することが決定。日系人の家庭にホームステイを始めるが、後にガラミアン宅に同居する。
最後の栄光1956年(15歳)からニューリンカーンのハイスクールに通学。この頃から日本への連絡が途絶えがちになる(一説には、日本や日本語に対する嫌悪感があらわれたと言われる)。
職業音楽家を集めたプライベートの演奏会において、ハイフェッツの伴奏者として知られるエマヌエル・ベイのピアノにより、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲 第1番≫を演奏。
出席者には、レナード・バーンスタイン、ピアティゴルスキー、レナード・ローズらの顔ぶれがあり、ハイフェッツのお気に入りの指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一の演奏家になるとのお墨付きを得た。新学期の9月には、ジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、さらに半額と規定されていた奨学金も全額支給される。秋にガラミアン教授宅を出て、ホームステイ先を変更。すでにガラミアンと折り合いが合わなくなっていた。
青春の終わり・悲劇の幕切れ1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。春にふたたびホームステイ先を変更する。4月より助手としてジュリアード音楽院に残り、研究のかたわら治療を続ける。
夏のヴァカンスでカリフォルニア州に行き、恩人ハイフェッツを訪ね、激賞された。9月にジュリアード音楽院に再入学するが、乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされており、劣悪な住環境しか見つからなかった(身元引受先のジャパン・ソサエティーによる配給額が適切でなかったためとされる)。
異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようにもなると、両親は茂夫の急変を察知。ジャパン・ソサエティに緊急帰国を要請するも、同協会は茂夫の治療優先の方針を崩さなかった。ついに11月2日、茂夫は未成年が購入禁止とされているはずの睡眠薬を大量に服用する。11月5日に日本の家族に危篤を告げる電報が届いた。一命はとりとめたものの、不幸にも脳障害が残り、回復する見込みはなかった。翌年1月、家族の要請により日本に送還され、その後四十年以上に渡って在宅療養を続けた。
再評価1988年、父・季彦の門下生など関係者の尽力によって、かつての茂夫の演奏・肉声を収録したCD3枚組が自主制作・頒布された。
そして1996年、前述のCDを2枚組にまとめた「神童 <幻のヴァイオリニスト>」が東芝EMIから発売された。
これが大きな反響を呼び、「驚きももの木20世紀」など複数のドキュメンタリー番組が制作され、その悲劇的な人生と(放送当時の)半ば植物状態の姿が紹介された。同年にはCD第二弾が発売されている。1999年8月15日に急性呼吸不全により58歳で永眠した。死後も茂夫に関係するCDがいくつか発売されている。
2009年、茂夫の遺品バイオリン2丁と楽譜など約300点が日本近代音楽館に父・季彦から寄贈された。 ウイキペディア

神童 渡辺茂夫

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完全版〜 11月6日(日) 23:20〜00:19 放送時間 59分 Ch.103 NHKBSプレミアム

(編集#つしま昇)

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