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二・二六事件のシナリオライター

送り盆も終わり、次に「灯篭流し」をして魂を天海に還すという古来慣習を踏んで日々生活が元に戻るというのは人間にとって節として有効と思われた。

鉄は熱いうちに打て、という諺もあり微熱があるうちに書いてみたいとおもう。この記事より、テレビを観ていた方が、「なんとなく判る」と感想もあるが、それだと明日にはすっかり忘れている。

ここの記事を「ライブドアブログ」に逆リンク張ったら、たちまたすごい数のPVに跳ね上がって、かえって心配した(8/1615時475V)。というのもその筋から、突っ込みも予想され炎上だってある。どうもその手前寸止め状にあるようだった。

もっとも、こうした戦記タブー記事を人に読んでもらうことは、稀だし、その意味では成功したかな、と思う。

また、NHK番組放送日程と、それが相乗したことも理由の一つになっていた。おそらく、それがなかったら、PVは半分以下か、3分の1程度なんだろうと見ていた。衰退テレビを揶揄されながら、以前としてその喧伝力は絶大なのである。

二・二六事件のシナリオライターは一体だれだったのか?

明日香さんに云わせるとそれらは「厄介な問題」となるが、一般常識的にまた隣国軋轢問題もあって声高には語れないことも事実だ。そんなことも加味して、ひそひそ話し井戸端話しになるのは止む得ないことなんだろう。

人の噂も~で、1週間したら忘れ去られる。それまでに、この時期を捉えて一人でも多くの人に知ってもらいたいと書き綴って読んでもらえたら冥利につきる。

明日香さんの指摘にあった"如何せん、Evidence(証拠)がありません。"の言分はもっともで、その史実を知っているものはこの世にいない、という話だ。そのことは精神分析のフロイトも本の中で書いていて、アレクサンドロスの東征は歴史で語られているが、実際それを見たものはいないし、語る説話のリアル感もない。と諭している。だからわれわれの捉え方も、それを踏襲して語ることは間違いとはいえないだろう。

では、この2.26事件解明は、誰のために何の目的があって、真実が判ったときなにをするか、できるか、という問いではすべて不可逆理論にのっとり、なんの意味もない。しかし、それをどうしても知りたい、という人間は、この世に0.4パーセントは存在する。その中の一人が自分である、かどうかは世間が判定する基準であり本人が力説するほど他が反比例するのはごく自然なことである。

さてさて本筋、二人の人物登場である。「北 一輝」と「石原 莞爾」の両者は、見方によっては仕掛ける側と守備側の敵対関係にあったが、おそらく歴史上でも対面したこともないだろう。しかし、いろいろ資料を読み解いていくと、その裁量と博識度数は群を抜いており、他を圧倒していた。善悪を別とすればなかなか、魅力溢れる人間として羨望の対象としても不遜はない。

両者に共通しているのは、日本海側の生まれであり、いまでいう「ウエストコース」タイプで、中央または多数派ノイジーマジョリティとは常に敵対心旺盛闘争心を剝き出しにする、という厄介な性質を持っている。アメリカで喩えるならアップルのジョブスだ。

それら諸説、様々流布しているが、あえて私見として、この事件キーマンはその二人にあると断定してスポットを当てた。             北一輝は、「二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者」として罪を科せられ処刑される。まあ妥当な負荷と誰もが認めるが、この事件、それだけのスケールで片付く規模ではないと推定している。     というのは陸軍動向はともかく、海軍の周到な情報収集は、見方によってはスパイ諜報であり、そのやり方はイギリスのそれである。まして日本は露バルチック艦隊撃滅に際してイギリスからの情報を得いてた、というくだりもあり、その関係は真っ向否定はできない。※日露戦争中1905年(明治38年)5月27日~5月28日。

片や石原莞爾は、「満州事変を起こした首謀者」として名を馳せ、その頃の満州国建国について、すべての情報を掌握していた人物である。     それだけ破天荒な両者が2.26事件だけの罪を背負って、すべて完了というのはどう見積もっても端数の数ばかり肥大で貸借表の体をなしていない。そこに異論あり、といまさら唱えても、テレビを見る限り証言者の齢を観れば100歳をゆうに超えている。                     ということは後数年でフロイトのいう史実であっても実証ではない論理として語られることになる。

北 一輝(本名:北 輝次郎)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。
父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であった。利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。
幼少年時代の莞爾
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は6位であった。士官学校卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。                                       陸大30期卒業生(石原は前列中央)
連隊長命令で、不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。                                                                    大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。                                                         在外武官時代
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。
関東軍参謀時代
石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。


二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。 この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。※資料ウイキペディア

*** ※相互リンク「ライブドアプログ」8/16 20:18 現在 738PV 過去最高記録。おそらく1000の大台に達すると思うが、この厄介で複雑な「2.26事件」をよく知りたい、という世間の願望と察した。           

自著コメント 本来、このジャンルのドキュメンタリー特集ニュースは新聞雑誌がやるべき仕事だった。では、それに変わったインターネット、モバイル等が、それをやるかといったら、やらない。そのシステムが出来ていないのと、金にならないし、変にスポンサーパトロンを刺激したくないという経済的反効果が作用する。つくづく「本音が語れない」言論界となりはてた。

その隙間、狭間の数ミリから覗いたこの記事は、プロ的取材は一切ない。あるのは若い頃読んだドキュメント本とかノンフェクションテレビ、それをもとにした記録情報と日々、書き綴ったHPやブログだった。それら膨大に蓄積した文字情報を、机の上にばら撒いて、これとあれとそれを括ると、これが出来た、という具合だ。そこにはある法則が貫かれていた。刹那に云ってしまえば人間は金で動く。ことだった。語弊は生じるが、1日900円程度の食費と衣住生活費給与だったら餓死はしない。その他の項目の計数が生活を圧迫しそれを食いつぶすことで、にっちもさったも動かないというジレンマ。狂言説話じゃないが握りつかんだ肉食を手放せば命は助かる。貧しい人ほどそれを解放できない。高みの見物、ハゲタカは、その一部始終を天空から凝視している。時が経てば獲物はただで手に入る、なぜなら獲物の絶対数は不変で、それを地球人全員で狙っているからである。それにありつけなかったら仮想にすがるしかない。




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