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古代兵法 六韜

高木惣吉と六韜(りくとう)


高木惣吉【たかぎそうきち】 海軍少将。終戦時の海軍省教育局長。(1893年〜1979年)
海兵43期。海大25期(首席)。熊本県出身。

貧しかったが勉強は抜群にできたので「学費がいらないから」海軍兵学校に進む。
海軍大学校を卒業後、フランス留学(昭和2年〜4年)
太平洋戦争開始時は海軍省調査課長。
戦局悪化に伴い東条内閣打倒を企てるが、計画実行直前に東条内閣は総辞職した。その後、米内光政、井上成美らの密命により終戦秘密工作に携わる。
戦後は東久邇内閣の副書記官長を経て執筆活動を行う。

高木惣吉と六韜 ─太平洋戦争の教訓─高木惣吉と六韜(下平)

下 平 拓 哉

はじめに

 太平洋戦争末期、日本の敗戦が色濃くなるなか本土決戦を阻止した海軍軍人、高木惣吉海軍少将は、希代の軍人学者である。西田幾多郎や田邊元といった京都学派とのつながりが深かったことは夙に知られているが、その高木惣吉が「水心兵学」と呼ぶ『六韜』をこよなく愛読し、『六韜』を通じて太平洋戦争における日本と日本海軍について分析し、『六韜新論』と『六韜漫談』をまとめあげていることはあまり知られていない。

『六韜新論』の「あとがき」では、次のように太平洋戦争の教訓と現代的意義を『六韜』に求めている。

 初めの構想は、わたくし自身の兵学思想に六韜を織りこんで見たかったのですが、それには長篇となるばかりでなく、六韜の好きなN君には興味も外れることであろう。これはN君に謹呈するものであるから、構想を改めて六韜を主にして、わたくしの体験からその現代的意義を掴むことにしました。(中略)兎に角わたくしは、この第二次大戦、太平洋戦争という幾多の尊い生霊を犠牲にした大災難の教訓をわが國民が不用意にも朽ち捨てて顧みないのは實に驚くべき麻痺症状であると思っています。勿論、N君の机辺にこの記録を留めることができるのは、或はそこに不可思議なる天意の存するものがあるのではないかと期待するのであります1)高木惣吉と六韜(下平)─2─
 このように、日本に多大な災難をもたらした太平洋戦争の教訓とその現代的意義を『六韜』に見出している。本稿では、高木惣吉が『六韜』について研究した『六韜新論』と『六韜漫談』を通じて、まず『六韜』の意義及び特徴について整理し、高木惣吉が太平洋戦争における日本と日本海軍についてどのように分析していたか、主として太平洋戦争の教訓について明らかにする。

1 六韜の意義
 『六韜』とは、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つであり、そのうちの『三略』と並び称されている。一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍」「虎韜」、三巻に「豹韜」「犬韜」の 60 編から成る。
 兵法の極意を意味する「虎の巻」は、この「虎韜」からきており、ちなみに「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味である。三国時代の戦乱の下で書かれた権謀術策の『六韜』は、政治・外交と軍事の関係のあり方、つまり理想をその史的教訓から導出したものである。
「大化の改新」の中心人物である中大兄皇子の最大の腹心であった中臣鎌足は、中国の史書に関する造詣が深く、『六韜』を暗記していたと言われる。皇極天皇 4 年(645 年)6 月 12 日、飛鳥板蓋宮において、後に天智天皇となる中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した。翌日、蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺したことにより、蘇我体制に終止符が打たれた。この「大化の改新」とは、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治への転換点となったという極めて大きな歴史的意義を有するものである。

高木惣吉と六韜(下平)─3─

そして、中臣鎌足は、忠臣の鑑であるとされ、『六韜』は忠の心を形成する礎であったのである。昭和 24 年(1949 年)1 月 5 日、高木惣吉は、辰巳亥子夫というペンネームによって『六韜新論』と『六韜漫談』を書き上げている。その中において、『六韜』について、為政者と民衆の関係について次のように説明している。

 六韜においては、一見民主思想の精髄のように読みとらるる名言の背後に君権思想が根を張っている。(中略)治乱興亡のあとを訊ね尭舜以来禅譲にあらずして放伐、簒奪であった易姓革命の眞相を捉えて、民衆福利の増進がいかに大事であるかを強調した。高木惣吉は、『六韜新論』において、国民に焦点を当てつつ、古今東西の兵学書の教え、過去の戦訓、自己の経験を織り交ぜて分析することにより、太平洋戦争の教訓と現代的意義を導出したのである。

2 六韜の特徴
 高木惣吉は、『六韜新論』の第七章「古典兵學」において、日本、欧州ロシアの兵学を比較しつつ、『六韜』の特徴について次のように分析している。

(1)日本の兵法

 わが國に傳はった兵法は、神代傳、御所傳及び後漢傳の三流と稱えられます。神代傳というのは、神代の兵法の傳えられたもの。御所傳とは、神后皇后、武内宿彌の實施した兵法となっていますが、果たしてこの神代傳、御所傳なるものが体系的兵法として純粋の形で傳えられたかは實に疑わしく一種の神秘的傳説にすぎないのではないでしょうか。後漢傳は、大江維時が支那に留学して多くの兵書を携えて皈朝したもので、いはば清國傳来の兵法はこれに含まれることになりましょう。

後年、匡房が八幡太高木惣吉と六韜(下平)─4─

郎義家に授けたのは、この大江家の後漢傳であったとのことであります。義家は匡房の厚意に報ゆるため源家家傳の御所傳を以てし、尓来、大江家は和漢兵法の宗家として残ったと称せられています。日本の兵法には、神代伝、御所伝、後漢伝の 3 つの流れがある。神代伝とは、神代の兵法であり、御所伝とは、神功皇后及び武内宿彌が実施した兵法である。『日本書紀』『古事記』によれば、神功皇后は、武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、朝鮮半島の広い地域を服属下においた三韓征伐を行い、数多くの武人から崇拝されていた。武内宿彌は、大和朝廷初期に、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の 5 朝に仕え、神功皇后軍の下において新羅出兵などで功績を上げた。蘇我、葛城、平群、巨勢の祖と言われている。

 越後流は、謙信流とも謂い、上杉謙信の兵法で、神代傳、御所傳に源すると傳えられているが、これらを批判するの資料は十分でありません。唯謙信の戦法を祖述したもので宇佐美良勝(為直又は定行と異名あり、上杉家武者奉行)これを体系祖述したもののようであります。越後流から上泉流、北條流を経て素行の大成した山鹿流となったのでありますが、又別に後漢傳から系統をひく甲州流から徳川流を経て同じく山鹿流に合流しております。

 越後流の経典と見らるる武門要鑑抄、武経要略は老子及び七書の思想が多く、わが古来の武教が余り明瞭に判別できないように認められます。その点では寧ろ『鬥戦経』は漢傳来の兵法をも批判しておりまして、その裡に上古のわが武教ともいうべきものを傳えるものがあるのではないかと思われます。眞鋭を説く日本傳と、詭譎を述ぶる後漢傳との綜合を試みたものとも観られます。而してその神武を強調し、兵道は能く戦うのみと喝破するあたり、儒佛の思想も咀嚼されておるといえましょう。越後流は、神代伝、御所伝を源流とし、北条流などを経て近世期に山鹿素行の山鹿流に合流している。太平の時代に入って、武士としてどのように生きるべきかという武士道についての理念をまとめており、広く普及すること・
高木惣吉と六韜(下平) 以下割愛

■下平 拓哉 (事業構想大学院大学教授)
ウクライナ情勢や中国、北朝鮮問題など、先を見通すことがますます極めて困難になってきている今こそ、太平洋戦争から学ぶときである。昭和20年8月、日本は有史以来未曾有の混乱のなかにあった。それはどのように終戦に導くかという大きな歴史的課題があったからである。終戦期、複雑なアクターが絡み合う中で、忘れてはならない存在が海軍良識派の逸材と言われる高木惣吉である。本講座では高木の知的交流活動と戦略眼から、太平洋戦争の教訓と今日的意義を洗い出していく。


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昨日の予告からすると、この白拍子記事を書く予定でいましたが、動画アーカイブを見ていたところ、「日本敗戦」の重要な分析論があったので、急遽、その記事にしたという訳です。

今朝早い時間のNHK終戦番組をやっていましたが、「学徒出陣」記録映像を見送る女子学生、その映像は、視覚的に説得力はありますが、当然それは戦争臨戦のプロパガンダであり、無為な戦争行為鼓舞でしかなく、はたまた東洋的情緒論の哲学不在の感情論なのです。

そうした中、日本軍中枢にいた高木惣吉が著した六韜は、これまでにない哲学的分析と、古来東洋思想の兵法を引き合いに出したことで、明確な戦争論を提示したのです。

一昨日に書いた「はだしのゲン」原爆記述が、教育現場の知らないところで、削除されるという不祥事と相まって、のっぴきならないこの事態の展開に、警鐘とあわせて啓蒙をしないと、将来この国のアイデンティティーも消滅してしまうという危機感は、払拭されないのです。

下記、テーマ記事の仏御前は、ほんのさわり程度の説明ですが、ひまをみて早急に起稿したいと思います。


仏御前
(ほとけごぜん)は、平安時代末期の『平家物語』の妓王説話を扱った節に登場する白拍子。
原平家と呼ばれる古本には妓王の話はなく、13世紀中頃にその逸話が挿入されるようになったと見られている。このため諸本によって挿入される箇所はまちまちであるとの見解。

画像 仏御前(小林清親画『古代模様』)ウイキペディア


小林清親画

平家物語における仏御前 「妓王」
平家物語、一方本における仏御前のあらましは以下の通りである。

平家の棟梁である平清盛は、妓王(祇王)という白拍子を寵愛していた。妓王が清盛に仕えて三年後、16歳の仏御前が清盛の前で舞いたいと申し出てきた。清盛は不快に思い、「祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけともいへかなうまじきぞ」と言い、仏御前を追い返そうとした。しかし妓王がとりなしたため次のような今様を歌い、舞を一指し舞った。
君をはじめてみる折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ清盛はたちまち仏御前に夢中になり、妓王は清盛邸を追い出されることとなった。

妓王は涙に暮れ、「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」という歌を障子に書き付けて屋敷を出た。その後妓王は仏御前を慰めるためとして、清盛の屋敷に呼び出されて舞を舞わされた。屈辱に耐えかねた妓王は母の刀自と妹の妓女とともに出家し、往生を願って念仏三昧の日を送る。
ある夜、妓王のもとに尼姿となった17歳の仏御前が訪れる。妓王の残した歌により、この世の栄華は儚いと悟り、清盛の寵愛を振り捨てて出家の道を選んだのだという。妓王は旧怨を捨てて仏御前を迎え入れた。四人はその後往生の素懐を遂げ、長講堂の過去帳に書き入れられた。
仏御前の伝承加賀国には仏御前の生涯にまつわるさまざまな伝承が存在している。『平家物語』のうち語り本系には仏御前が加賀国出身であるという記述があるなど、加賀国と仏御前の関連は古くから伝えられていた。世阿弥作とされる謡曲「仏原」は、加賀国に帰った仏御前の霊が、旅僧によって供養されるという話であり、世阿弥が加賀国の伝承を伝え聞いた可能性はある。ウイキペディア

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