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鎌倉時代よりの日本の農業

ベトナム:稲作副産物「もみ殻」バイオマス燃料製造

2016年10月17日 「kazuhirotanaka 」コメ, バイオマス, ベトナム, もみ殻, 再生可能エネルギー

ベトナムでのもみ殻バイオマス事情
これまでベトナムでは、もみ殻は保冷剤もしくはレンガ炉・蒸留所で燃料として利用され、灰は肥料として農地に還元されていた。しかし、近年環境にやさしく効率的なバイオマス燃料として利用され始めている。
※もみ殻とは、コメの乾燥精米工程において、籾すり(乾燥後のもみから、もみ殻が剥がされ玄米になる工程)の段階で発生する稲作副産物である。

2010年から2016年にかけて、メコン川流域におけるコメ生産量は2,000万トンから2,500万トンへ急速に拡大しており、もみ殻に換算すると年間あたり400〜500万トンが発生している状況だ。
もみ殻は、数年前までは50〜200ベトナムドン/kg(日本円換算約0〜1円/kg程度)で取引されてきたが、現在では700〜800ベトナムドン/kg(日本円換算約3〜4円/kg程度)まで相場が高騰している。

各社のもみ殻売買動向


■農林水産省の統計ではおよそ700~800万トンの米の生産量(農林水産省 農業生産に関する統計)があるとされていて、このうちの2割が籾殻と過程すると、年間で「140~160万トン」の籾殻が発生していると試算することができます。2022/02/04
比較 内航フェリー船(140万トン. 72万トン. 56万トン. 26万トン)

外務省
環太平洋パートナーシップ(TPP)協定とは、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、チリ、日本、マレーシア、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、シンガポール、米国及びベトナムの合計12か国で高い水準の、野心的で、包括的な、バランスの取れた協定を目指し交渉が進められてきた経済連携協定です。2015年10月のアトランタ閣僚会合において、大筋合意に至り、2016年2月、ニュージーランドで署名されました。日本は2017年1月に国内手続の完了を寄託国であるニュージーランドに通報し、TPP協定を締結しました。 その後、2017年1月に米国が離脱を表明したことを受けて、米国以外の11か国の間で協定の早期発効を目指して協議を行いました。2017年11月のダナンでの閣僚会合で11か国によるTPPにつき大筋合意に至り、2018年3月、チリで「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)」が署名されました。部分引用

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/tpp/index.html

いまではすっかりそのTPP話題がありませんが、ただメディアが取り上げないからでしよう。

先日テレビでやっていた農民作家「山下惣氏」の活動をしって、この日本の農業現実をしるに至ったというわけです。
話は農業ですから、3kの代名詞みたいなもので、おまけに少子化も手伝って、後継者不足~、というより農家廃業という選択が、ものすごい勢いで進んでいるのを、永田町界隈のエリートサラリーマン諸氏は、ご存じでしょうか。

もっとも、その人達にしたって田舎寒村(なんにもネプリスリー幾三)が嫌で、東京に出てきて目出度く官僚とか大手企業に入った2男3男ですから、知らないはずはないでしよう。

ですから、望郷の思いはあっても帰京して農家を継ぐ選択肢はまったくないといっていいでしょう。

そんなことが5.60年続いたのですから、全国の田圃は広大な雑草地区になりかわったのです。また水稲米消費量も落ち込んで、その減反と消費減少が均衡していて、バランスを保っているようですが、実情はそんな生易しいものではありません。一反歩生産量10俵として約10万円(60キロ1万)売上で、農家はどう生活するのでしょう。それが実体です。

また、コメは、白米にするまで、8工程米の字が、表わしているように手間暇がかかります。
稲刈りが済んで脱穀しますが、そこから籾殻、こめ糠が副産物として出ます。その籾殻が厄介で、毎年膨大な量がでます。そんなことを弥生時代よりやってきた日本の農業なのです。

多分、都会暮らしの若い「ママ友」は、そんな実情を殆どしらない話しでしょう。
■ベトナム例 2010年から2016年にかけて、メコン川流域におけるコメ生産量は2,000万トンから2,500万トンへ急速に拡大しており、もみ殻に換算すると年間あたり400〜500万トンが発生している状況。

日本は年間で「140~160万トン」の籾殻、という統計は、他に輸入にたよっているという実体があるでしよう。

そうした泥臭い農家実体は、メディアも配信しないし、また社会世間にいたっては、話題にもしないと思われます。

籾殻
籾殻と玄米。左が籾殻
籾殻(もみがら)とは、籾(籾米)の最も外側にある皮の部分のこと。粗糠(あらぬか)、磨糠(すりぬか)、籾糠(もみぬか)、また単に籾(もみ)ともいわれる。

ベトナム

山下 惣一(やました そういち、1936年5月25日 - 2022年7月10日)は、日本の農民、小説家。農業をテーマにした作品の小説・ルポを執筆した。
佐賀県唐津市出身。唐津市立湊中学校卒。86歳没。

note 上担喜寛 https://note.com/shinchoryu/n/n6c946f90c6e0


『吾妻鏡』は鎌倉幕府の何を描くための歴史書だったか?


吾妻鏡とリーダーの要諦(2)その執筆の意図を探る
山内昌之東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授情報・テキスト テンミニッツTV

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史ではなく、編年体で書かれた将軍年代記であり、「源氏に厳しく北条に甘い」という特徴を持つ。そこに込められた書き手の意図と、必然とも言える『吾妻鏡』終止符の意味を解き明かす。シリーズ「日本の歴史書に学ぶ」第一弾。(2/4)
収録日:2014/02/26
追加日:2014/04/17
カテゴリー:歴史・民族日本史(古代~中世)
タグ:吾妻鏡 鎌倉時代 鎌倉幕府 武家 武士
≪全文≫●将軍年代記であっても鎌倉幕府の正史ではない

 この書物『吾妻鏡』は、一体、誰がいつ書いたのかというのは、多くの謎に包まれております。二つの説があり、14世紀に書かれたという説を挙げる専門家たちがいます。もう一つは、二つの時代に分けて書かれたのではないかという説があります。すなわち、前半部については13世紀後半、後半部については14世紀初頭ではないかという二段階説をとっている学者もいます。

 しかしながら、この書物の特徴は、誤解してはなりませんが、実は鎌倉幕府の正史、つまり鎌倉幕府がはっきりと年代が分かる形で、誰かに命じてこの歴史を書かせたという、そういう意味での公式な歴史、オフィシャルヒストリーではないという点が大変重要なのです。

 この書物をよく見ていきますと、文章は編年体、すなわち、かつての日本の公式の歴史であった六国史、『日本書紀』や『続日本紀』から『文德実録』『三代実録』に至る公式の歴史と同じように、つまり天皇によって分けて歴史を書いたのと同じように、将軍職や将軍の交代を一つの基準にして歴史を書いているという年代記の形をとっています。

●源氏三代将軍には厳しい評価を下す

 さらにこの書物は、実は独特な和様調の漢文体で書かれていて、非常に不思議なリズムを持っている本なのですが、これを読んでいきますと、次のことが分かります。

 結論から申しますと、第一に源氏の三代の将軍に対してその評価が非常に厳しいということ。それに対して、二番目に、北条義時以降の北条得宗家の執権政治に対しては非常に甘く評価が高いという特徴が挙げられます。

 第一の特徴とは、これは例えば、二代将軍の源頼家は自分の家来、御家人が愛でている女性を奪いとったとか、蹴鞠に凝ったりして政治を顧みなかったというような調子で書かれています。また、源実朝は日本の文化史にも残る『金槐和歌集』を編纂し、私たちは彼を歌人としてよく知っているわけですが、その実朝が和歌に熱中しすぎ、そして後鳥羽上皇に対して忠誠を誓うあまり、鎌倉、東北の御家人たちのことを気にとめない公家肌の人物だった。すなわち、暗黙のうちに実朝は武人ではないというニュアンスで書かれたりしているのです。

 蹴鞠や和歌というのは、本質的に言えば、これは公家のものとして東国の武士たちは考えていました。たしなみや教養の基礎としては蹴鞠や和歌を否定することはなかったけれども、必要以上にのめり込んだ実朝に対しての評価は、非常に厳しいものがあります。

 さすがに、すなわち日本の武家政権の最初の棟梁であった初代の頼朝に対する露骨な批判はありません。しかし、よく読んでいきますと、頼朝に対するそこはかとない批判が散りばめられているのです。まず何よりも今、皆さんや私たちが描いている頼朝のイメージは、かなりの体が『吾妻鏡』が元々につくったのではないかと思われます。
 
 頼朝というと、あの英雄であり、兄を慕い、兄のために働いた義経を最後に殺害し、さらに同じ兄弟の範頼まで自分の手で殺害に追い込んでいくというように、非常に冷酷な人物として考えるような、どこかでそういった印象を子どもの時から持っています。その時に必ず出てくる人物として、義経のことを讒言(ざんげん)し、頼朝に義経の悪口を告げ、頼朝の義経に対する疑いを深めた人物として、梶原景時という人物がいます。この梶原景時に対する評価、梶原景時は悪い家臣であったというようなことを、実は『吾妻鏡』は摺りこんでいるのです。

 すなわち『吾妻鏡』は、実は結果として、源頼朝という武家の大棟梁、政権の創始者としての評価を間接的に押し下げることに貢献した書物だということなのです。

●得宗家に対する高い評価で北条執権政治の正当性をアピール

 それに対して対照的なのは、北条義時や泰時に代表される得宗家に対する高い評価です。第一に、この得宗家の全盛期のよき政治、グッドガバナンスについて強調しています。まず私たちが中学、高校の社会や日本史の授業で習ったように、貞永年間につくられたあの有名な御成敗式目(貞永式目)によって、法の制定による法治主義、現代風に言うと、法の支配を武家政権が初めて打ち立てたと評価しています。

 さらに評定衆や引付衆といった職制を定め、政策決定をグループ化することによって集団的な政策の運営、すなわち合議制というある種の日本型の民主主義の基盤をつくったのも泰時であるという形で語られます。これは暗黙のうちに、源氏三代が将軍の恣意的な政局運営をしたような将軍独裁制であったのに、それに代わって御家人たちの気持ちを酌み上げ、関東、東国の武士たちによる執権政治を得宗家が樹立したという見方に貫かれています。
以下割愛

 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)

吾妻鏡 書籍紹介
著者名 西田 友広 (編)
発行年月日 2021年11月20日
出版社 KADOKAWA

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史を日記風に記した歴史書であり、鎌倉時代の後期に、鎌倉幕府の関係者によって、将軍単位の年代記として編纂されたと考えられている。

『吾妻鏡』には、初代の将軍となる源頼朝のもとに、平家の追討を命じる以仁王の令旨 (命令書) が届き、頼朝が挙兵した治承四年 (一一八〇) から、六代目の将軍である宗尊親王が鎌倉から京都に送還された文永三年 (一二六六) までのできごとが、途中に十年分ほどの記事の欠落を含みながら、記されている。具体的には、鎌倉幕府の成立、幕府に結集した武士たちの活動、幕府で行われた政治や行事、朝廷とのやり取り、鎌倉やその周辺で起こった様々な出来事が記されており、鎌倉幕府や鎌倉時代の歴史を考える上では必要不可欠な史料である。

江戸幕府を開いた徳川家康は『吾妻鏡』を愛読しており、それまでは筆写した本しか存在しなかった『吾妻鏡』を活字版で刊行し、これをきっかけに『吾妻鏡』は多くの人々に読まれるようになった。

また、太宰治の「右大臣実朝」は、鎌倉幕府の三代目の将軍である源実朝の半生を、実朝の側近に仕えた一人の武士の語りを通して描いた小説であるが、随所に引用された、出来事をそのまま淡々と書き綴る『吾妻鏡』の文体が、本文の武士の語りの文体と好対照をなしており、作品全体にメリハリを与えているように感じられる。

『吾妻鏡』は『平家物語』に比べると、一般にはあまりなじみのない書物かもしれないが、簡潔な文体ともあいまって、とても興味深く、魅力的な書物なのである。

ただし、『吾妻鏡』は分量が多く、原文は、変体漢文と呼ばれる、日本で変化した独特の漢文で記されており、その全体を読み通すには、一定の訓練と努力が必要となる。また、これまでに、原文、書き下し文、現代語訳はそれぞれ刊行されているが、これをセットとした書籍は刊行されていなかった。

そこでこの本では、『吾妻鏡』から鎌倉時代の歴史をたどるうえで重要な事件や、鎌倉時代の社会を考えるうえで重要な出来事を中心に、各年から一つ以上の記事を選んで採録した。また、『吾妻鏡』の本文が欠落している年については、その年の主要な出来事を書き記した。この本を読めば、『吾妻鏡』に描かれた鎌倉幕府の歴史の大きな流れが把握できるはずである。

また、採録した記事については、現代語訳・振り仮名付きの書き下し文・語注・解説・返り点付きの原文をセットとして示し、初めて『吾妻鏡』を読もうとする人にも分かりやすくなるように、また、変体漢文で記された歴史史料の読解の練習にも利用できるようにした。そのため、記事の採録にあたっては、文書の引用された記事も多く選んでいる。

この本を入り口として、『吾妻鏡』の面白さ、歴史史料を読むことの面白さを感じて欲しい。
(紹介文執筆者: 史料編纂所 准教授 西田 友広 / 2022)

義経に愛された静御前
2020.03.04 0oh 和楽 
大河ドラマにもしばしば登場する源義経。能や歌舞伎・浄瑠璃・講談・文学作品をはじめ、現在でも漫画やゲームなどで人気を誇っている、平安時代末期の武将です。弱い立場の人に同情して応援する「判官(はんがん)びいき」という言葉のもとになるなど、歴史の敗者側でありながら、常に絶大な支持を受けています。

その義経に愛された女性が静御前(しずかごぜん)です。『ドラえもん』のヒロイン・しずかちゃんも、この静御前から名前がつけられたようなのですが……。静御前って、どんな人だったのでしょう?

静御前とは?
静御前は、平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた女性です。白拍子(しらびょうし)という、頭に烏帽子(えぼし)をかぶって水干(すいかん)という装束を着、太刀を腰につけた男装姿で舞うことを生業としていました。白拍子舞をはじめたと言われる女性の1人、磯禅師(いそのぜんじ)は静御前の母親です。

義経と出会った経緯は不明ですが、静御前は義経に非常に愛されました。また、とても頭のいい人で、義経が京都で兄・頼朝の刺客に襲われたときに難を逃れたのも、静御前のとっさの機転によるものだったとされます。

義経と吉野で別れた、その後
文治1(1185)年、兄である源頼朝と不仲になっていた義経は、京都を離れます。その時にも義経の側には静御前がいました。

しかし翌年、雪の降る大和国(現在の奈良県)吉野山の山中で、静御前は義経と別れます。義経に身の安全を配慮されたためでしたが、ここで静御前は捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られます。

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
頼朝とその妻・北条政子に命じられて、鶴岡八幡宮の社前で静御前が舞ったときの歌です。どちらも義経を恋い慕う内容で、頼朝を激怒させましたが、政子が「自分も同じ立場ならこうする」と取りなして、命を助けられました。

義経の子を産むも……
静御前は義経の子を宿していて、文治2(1186)年・閏(うるう)7月29日に出産します。生まれた子供が女の子なら救うが、男の子なら将来の禍根を残さないために殺す、と告げられていたのですが、生まれてきたのは男の子でした。大泣きして離さない静御前の腕から磯禅師に取り上げられ、頼朝の家来の手に渡った義経の子は、鎌倉の由比ヶ浜に沈められました。

その1カ月半ほど後、静御前は母とともに京へ帰されます。頼朝の妻・政子母娘が静御前を憐れみ、たくさんの宝物を持たせたといいますが、その後の静御前がどうなったのか、いつ頃まで生きたのか、記録は何も残っていません。

『吾妻鏡』山内昌之
2023-05-29 11:07:14 表示を確認 | 記事をコピー


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