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縄文のふるさと奥州地方

日本の黎明 平泉への道

2015年08月19日 10:57
日本の黎明 平泉への道
22.蝦夷の強制移住 朝廷側移民と表裏一体
 延暦24(805)年、播磨国の蝦夷(えみし)で蝦夷爵第二等の去(さる)返(がえし)公(のきみ)嶋(しま)子(こ)が浦(うら)上(かみの)臣(おみ)という姓を賜(たまわ)っている。

 また、弘仁5(814)年の条には遠(とおつ)胆沢公(いさわのきみ)母志(もし)が出雲の叛俘(はんふ)、すなわち乱を起こした俘囚(ふしゅう)を討った功績により外(げの)従五位下(じゅごいげ)、元慶4(880)年の条には、近江国の俘囚の遠胆沢公秋雄(あきお)が外従五位下を授けられている。

まとめ担う

 去返公とは、朝廷が猿ケ石川流域の蝦夷の族長に与えたものである。嶋子が公のカバネと蝦夷爵を有していることからすれば、彼は東北では政府側からそれなりに評価されていたのだろうが、やがて反政府的な行動がめだつようになったからなのであろうか、仲間とともに播磨国に移住させられたのである。(去返公、さるがえしのきみ)

 『倭(わ)名(みょう)類(るい)聚(じゅう)抄(しょう)』には播磨国賀茂郡・美嚢(みなき)郡に夷俘(いふ)郷があったことが記されており、彼らが集団居住させられることがあったことがわかる。そして俘囚長が選任され、人々を統括したらしい。嶋子の場合も、播磨国に送られた俘囚集団のまとめ役の役割をになわされていたのであろう。

 遠胆沢公の称号も、胆沢地方、または胆沢よりもなお奥地の蝦夷の族長に与えられたものである。したがって、母志や秋雄も、もともとは岩手県地方の蝦夷の族長の家柄に属する人物なのだが、本人の代なのか、父や祖父の時代のことなのかは明確ではないものの、いつの頃(ころ)かに西日本に強制移住させられているのである。

 蝦夷を各地に強制移住させる政策は、早くから実行されていた。正倉院文書としてたまたま残されている天平10(738)年の駿河国正税(しょうぜい)帳と筑後国正税帳には、陸奥から摂津(せっつ)職(しき)(摂津の国を管掌する役所)まで、および筑後に送られた俘囚115人と62人に関する記録が残されている。

 駿河国正税帳には、陸奥国から摂津(難波の港)まで送られる俘囚115人が駿河国を通過したことが記録されている。この時の俘囚は摂津からは船で瀬戸内海を渡って九州まで行ったのであろう。また、別の例では中央官庁に配属されたり、また高官に与えられて、雑役に従事させられた場合もある。

 朝廷は、城柵を設置して多くの移民を東北に導入する一方で、蝦夷を全国各地に強制移住させる政策も実行したのである。東北地方以外の国々に蝦夷を移住させることは奈良時代以来の政策であった。東北地方への移民と蝦夷の他国への強制移住は表裏一体のものだったのである。

反乱の例も

 『延喜式』には、伊勢・遠江・駿河・甲斐・相摸・武蔵・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・下野・越前・加賀・越中・越後・佐渡・因幡・伯耆・出雲・播磨・美作・備前・備中・讃岐・伊予・土佐・筑前・筑後・肥前・肥後・豊後・日向という、ほとんど全国の国々で、東北から移住させられた蝦夷に衣服や食料を与えるための予算処置が講じられていることを示す記載がある。

 歴史書には、移住先で朝廷の意にかなう行動をして位を与えられた者がある一方で、農業を嫌って狩猟を好むなど、移住先の生活になじむことができずに逃亡した例も記されている。また、集団で反乱を企て、それ故に再度別の地に移住させられた者もあった。

 反乱の例では、遠胆沢公母志が授位された理由が、出雲での叛俘を討った功績によるものだと明記されており、その乱は出雲国の意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模なものであった。嘉祥元(848)年には、上総国で俘囚の乱が発生し、貞観17(875)年にも上総国と下野国で、元慶7(883)年にも上総国で大規模な俘囚の乱があったことが記録されている。


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