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日本の大衆芸能(音楽・歴史)のエピソード(西洋歴史)

日本音階「黄鐘」ラ音 シルクロードで東西音楽にわかれた理由

昨日(過去記事)はすっかり西洋音楽の解説に終始してしまって、いささか私としても心地よい疲労感を味わった。

というのも当事の若い頃を思い出し、日本社会を席巻していた「ビートルズ」の数々のエピソード記録も箪笥の下の敷き紙のファイルにもぐっていた。(1966年6月30日から7月2日にかけて東京・日本武道館で公演)(この伝説公演コンサートをライブで観たファンも数えるほどしかいなくなった)。

いまにして回想すれば、それは画期的なことで、また、「武道館ライブ」というのも日本の音楽シーンで新機軸のアプローチではなかったかとおもう。その当事、自分も若かったこともあって、「ビートルズ」旋律のメロディーが、どの程度優れていたか、という学術的な知識もまったくなく、ただキャーキャー(圧倒的少女パワー)騒ぐ黄色の声に圧倒され、その強大なバイアスに社会全体が引きずり回された、というのが実際だった。

※その、どうしてそれが「黄色」(キャー)なのか調べてみた意外な 結果。

古典邦楽12音階の基音ラを、黄鐘(おうしき)といい、それからきていると思われる。(古代日本に作られた「梵鐘」の音は時刻予報の機能を果たし、それらは寺院の場所によって周波数が設定されており、その鐘の音が、どこから発せられるのかが判った。古文書≪徒然草≫にはそう書かれている) 

したがって「ビートルズ」が帰国した後も、それがなんであったのか、まったく自覚もなく、レコードを頻繁に聴いたという記憶もない。
もっとも、レコードを回すオーディオ機器にいたっては、金持ちの道楽がたしなむ高額趣味範囲で、中高男子(女は騒ぐだけでミュージシャンにはならない、湯川れい子は別)が手の届く場ではなかった。それでもエレキギターだけは持っていた、というアンバランスは説明のしようがない。

「音の世界」については、随分と探索した。もともと古典芸能に興味があり、地元の神楽演奏にたずさわっていたことも関係して、自分の演奏してる笛の音と、ビートルズが弾くギターの音は、理論的に、何が違うのか、という基本を調べはじめたのは、つい最近のことだった。

そうしているうちに、自分だけでなく、ちょっと前の昔の人も、その疑問に捉われて、膨大な研究書籍を書き残していた。その大家が「伊庭孝」であり、民俗的な音と態様とその伝承物語を文書化して、冊子にまとめた「遠野物語」柳田國男などがいた。

今日は、その話をしようとおもう。昨今、そうした「生活民芸的」な話はネット上に散見するが、では実際にそのような生活を体験できるかといったら、殆ど皆無といっていい。
また日本の国勢的な事情も絡んで、地方田舎の過疎化、快適な生活が望めない不便な田舎を捨て、都会へと人が移住しているという実態が拍車をかける。
おそらく、この場で、そうしたことの打開策(地方創生)をいったところで、まったく効力はなく、大きな潮流は「人知のおよばざる領域」として止めようがない。

~古典音階下記詳細~ b0050130_2316105

ガムランは日本音階のルーツ

五つの各調子は和律名で曲を現す基音の音程を表記したものである~
壹越調は中央で土、
盤渉調は北の玄武・冬・黒、
双調は東の青龍・春・青、
黄鐘調は南の朱雀・夏・赤、
平調は西の白虎・秋・白、を用いて方位ごとに音程を現している。

「日本音楽概論」伊庭 孝著  
伊庭 孝(いば たかし、1887年12月1日 - 1937年2月25日)日本の俳優、演出家、作詞家、音楽評論家である。佐々紅華、田谷力三、藤原義江らとともに「浅草オペラ」を築き上げたことで知られる。1887年(明治20年)12月1日、東京市に生まれる。伊庭想太郎の養子で、幕末の幕臣伊庭八郎の甥にあたる。東京府立一中時代には谷崎潤一郎らと同期だった。のち天王寺中学に転じて同志社神学校(現 同志社大学)に入学するも、高畠素之、遠藤友四郎らとともに学内で社会主義を唱え、1年半ほどで中退する。1912年(大正元年)10月、24歳のとき、上山草人らと「近代劇協会」を設立、有楽座での旗揚げ公演はイプセン作の『ヘッダ・ガブラー』、翌1913年(大正2年)3月、帝国劇場でグノー作のオペラ『ファウスト』を上演、オーケストラの指揮は竹内平吉が執った。

日本の古代歴史はシルクロードから


東ローマ帝国(英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。

ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。
皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。

同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。

ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων‎, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。

中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。

西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。

帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。
また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国~

この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。

16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(英語版)(1516年~1580年)の功績とされる。
ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル(英語版)、ヨハネス・レウンクラヴィウス(ドイツ語版)、ドゥニー・プトー(英語版)、ヴルカニウス(英語版)、メウルシウス(英語版)、レオ・アラティウス(英語版)ら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。

ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。
例えばオックスフォード・ビザンツ事典(英語版)や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。

ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはない。カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。

歴史的「黒海」周辺諸国の攻防

東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「Έλληνες, ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。

画像 ロシア黒海艦隊、一部潜水艦の配備先変更=英国防省 | jp.reuters.com

黒海という名の青い海~ブルガリア・ヴァルナ~ 上

英国防省

例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』においての蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

ビザンチン観光『ターキッシュエア&トラベル』 参考記事
395年に死去したローマ皇帝テオドシウス1世が、二人の息子に東西を二分して統治させたため、結果的にローマ帝国が東西分裂することになりました。東西分裂の際に、東方正帝がコンスタンティノープルを首都とし統治した東方領が「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」です。西には西方正帝がメディオラーノム(現ミラノ)を首都として統治した西方領土「西ローマ帝国」がありました。
日本語ではもっぱら黒海(こっかい)と呼ばれる。英語ではBlack Sea、トルコ語ではKaradeniz、ロシア語ではЧёрное море、ウクライナ語ではЧорне мореとなる。トルコ語のKara Denizには「偉大なる海」という意味の他に「黒い海」という意味もあり、ちなみに地中海はトルコ語でアク・デニズ(白い海)という。 Amasra,_Bartın,_Turkey

名称の変遷
ギリシア神話の時代には、黒海沿岸などギリシアより北方の未開地に女性だけの部族アマゾンがいて、黒海もかつてアマゾン海と呼ばれた。現にトルコ沖にはアマゾン島がある。

古く(紀元前700年頃 - 500年頃)は、古代ギリシア語でἌξεινος Πόντος (Axeinos Pontos(ポントス・アクセイノス。
暗い、薄暗い海。愛想が悪い海。)、ラテン語でPontus Euxinus(ポントス エウクセイノス。客人を歓待する海、客あしらいのよい海。)と呼称されていた。ギリシャ人が進出し、自分たちの勢力圏とすることで、前者が後者に変わった、とされる。東ローマ帝国の文書内ではPontos(ポントス)とだけ記述されている場合が多い(ギリシア語で「海」の意)。
中世(500年頃 - 1500年頃)には、イタリア語文献ではMare Maggiore(Greater Sea、偉大なる海)という名称が用いられ、アラブの文献では多数の名称(ローマの海、偉大なる海、トラブゾンの海、等)が用いられている。

オスマン帝国期(1500年頃 - 1700年頃)には、オスマン帝国初期にトルコ語でKara Deniz(偉大なる海)という名称が文献に現れ始める。

ロシア帝国期(1700年頃 - 1860年)には、Чёрное море(Chernoe More、黒い海)という名称が用いられている。1860年以降になると、Black Sea(黒海)という英語の呼称が国際的に使われるようになった。

面積は436,400km2ある。最大水深は2,206m。名称は黒味を帯びた海水に由来し、この黒味の原因は硫化鉄であるとする説と、地中海よりも豊富な微小藻類であるとする説がある。前者は次のように説明される。黒海は、大陸に囲まれた海であり、地中海と辛うじて結ばれているだけの閉鎖性水域である。黒海の海水は水深200mを境として冷たく塩分の薄い表層水(河川から流入し、地中海へ流出)と、暖かく塩分の濃い深層水(地中海から流入)が層を成して混合しない。このため深層水では酸素が欠乏し嫌気性バクテリアによって硫化水素が発生し、海水中の鉄イオンと結合し黒色の硫化鉄を生成する。表層水は充分な酸素を含むため豊かな生態系を擁しており、漁業も行われている。漁獲高は年25万トンから30万トンに上り、その3分の2がアンチョビで、残りはアジやイワシ、ニシンやチョウザメなどである。

気候は、南西部が地中海性気候、北端のドニエプル川河口付近がステップ気候であるほかは、ほぼ全域が温暖湿潤気候である。
北東岸には砂州が多く発達し、最も長いものではオデッサやドニエプル川の西からクリミア半島近くまで130kmにもわたって延びているものがある。クリミア半島は東部で細いケルチ海峡によりそれ以東と分離されているが、北側も大陸とそれほど確固とした繋がりがあるわけではなく、黒海と、アゾフ海とつながる腐海の間は、幅5km程度のペレコープ地峡によって繋がっているに過ぎない。北東岸、とくにウクライナ領内の海岸は平坦で、大平原の広がる穀倉地帯となっているが、クリミア半島南岸近くにはクリミア山脈が伸びており、海岸線近くまで山が迫っている。これは北西岸も同様で、コーカサス山脈が北西から南東に延びており、海岸平野はさほど広くない。南岸のアナトリア半島でも、海岸沿いにポントス山脈が東西に延びており、平原の発達はあまりない。

黒海に注ぎ込む河川のうち最大のものは、西岸、ルーマニア・ウクライナ国境で流れ込むドナウ川である。次いで、同じく北西岸に流れ込むドニエストル川、北岸に流れ込むドニエプル川が大きなものである。これ以外は、南岸、アナトリア半島の中部から流れ込むクズルウルマク川を除き、大河と呼べるものはほとんどない。

黒海はそれ自体が重要な交通路となっているほか、流れ込む河川交通との連結運輸も重要となっている。ドン川からはヴォルガ・ドン運河を通してヴォルガ川やカスピ海と結ばれ、さらにヴォルガ川からはヴォルガ・バルト水路を通じてバルト海と、さらにその途中のラドガ湖で白海・バルト海運河によって白海まで内陸水運のみで繋がれている。また、西ではドナウ川からライン・マイン・ドナウ運河を通じてマイン川・ライン川へ、さらに北海へと結ばれている。

南西にイスタンブールがあり、古くから東ローマ帝国、オスマン帝国の首都があったことから、黒海地域の歴史は複雑である。オスマン帝国時代には対ウクライナなどの黒海貿易もあった。黒海が位置するのがアジアとヨーロッパの境界線上であるため、中東史、ヨーロッパ史、ロシア史のどの分野でも記述される機会が少なかったが、少しずつ黒海周辺を一つの地域として黒海歴史研究をする学者が出てきている。

古代歴史
紀元前7世紀頃から、ボスポラス海峡を通ってギリシャ人が黒海沿岸各地に植民を始め、タナイスやパンティカパイオン、オルビアといった植民市が各地に建設されていった。これらの植民市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人らの遊牧国家から彼らの支配地の黒海沿岸黒土(チェルノーゼム)地帯の農耕民から徴税した穀物や戦争捕虜の奴隷を購入し、ぶどう酒や武器などのギリシャの産物とを取引して力を付けていった。また、これらの植民諸都市、とくにタナイスは東西交易路の一つ、ステップ・ルート(草原の道)の西端にも当たっており、黒海はこの頃にはすでに東西交易の重要なルートとなっていた。

スキタイ人の手により東方の産物が植民都市に持ち込まれ、ギリシャ人によって地中海世界へと運ばれていった。この交易の様子はヘロドトスの「歴史」にも描かれている。そして紀元前5世紀にはこれらの植民市を統合してボスポロス王国が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていった。ボスポロス王国はのちにローマ帝国の従属王国となりつつ4世紀頃まで存続したが、フン族によってほぼ滅ぼされた。紀元前1世紀にはいると、ポントス王国など黒海南岸の諸国はすべてローマ帝国の領域となり、ローマの勢力圏となった。

地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道」を示す。図解

ローマ帝国が衰亡し変質していく中、コンスタンティヌス1世は330年にローマ帝国の首都をローマからコンスタンティノープル(現イスタンブール)へと遷都する。395年のローマ帝国の東西分裂後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となり、人口数十万を擁する世界有数の大都市となっていった。コンスタンティノープルは短いボスポラス海峡を通じて黒海に直結しており、この大都市の出現により黒海交易はさらに盛んになった。東ローマ帝国自体も、黒海北岸の古いギリシア植民都市であるケルソネソス(セヴァストポリ)およびその付近のクリミア半島南岸を手中に治め、黒海を掌握していた。

650年頃、それまで西突厥の宗主権下にあったハザール・カガン国が独立し、カスピ海から黒海北岸を勢力下においた。ハザールはイスラム帝国とは敵対する一方、東ローマとは基本的に友好的な関係を維持した。またハザールは商業を保護し、バルト海からヴォルガ川を通ってカスピ海・黒海へと向かう、ヴァリャーグからギリシャへの道(下記)の西よりルートを活性化させ、またステップ・ルートの再活性化にも努めた。ハザールの黒海北岸支配は10世紀まで続いた。

9世紀前半以降、ヴァイキングの一派であるスウェーデン人(ヴァリャーグ)によって、「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれるバルト海と黒海を結ぶ交易ルートが開設される。ルーシを貫き、ノヴゴロドからキエフを通りドニエプル川で黒海へと向かうこのルートは、ヨーロッパの南北を東側で結ぶ主要ルートとなり、キエフ大公国などのルーシ諸国家を東ローマ帝国と強く結びつけた。この時期に、東ローマの国教であるギリシア正教がロシアに受容されている。

第四次十字軍によって東ローマ帝国が一時滅亡すると、十字軍側のラテン帝国に付いたヴェネツィア共和国および、東ローマの後継国家であるニカイア帝国と結んだジェノヴァ共和国が古代ギリシャと同様の対遊牧国家の黒海交易へと進出し、1261年の東ローマ帝国復活後はジェノヴァが黒海交易を握り、ケルチ半島のカッファなどに植民地を築いた。

しかし、14世紀に入るとアナトリア半島に興ったオスマン帝国が勢力を拡大し、1453年にはコンスタンティノープルを落として東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープル(イスタンブール)に首都を置いた。黒海とバルカン半島、アナトリア半島を繋ぐ要地に大帝国が本拠を置いたことで、これ以後黒海の制海権はオスマン帝国が握ることとなる。1475年には黒海北岸にあったモンゴル帝国北西分国ジョチ・ウルスの末裔、クリミア・ハン国を従属国とし、クリミア半島南岸に残っていたジェノヴァの植民地もオスマン帝国が直轄領としたことで、黒海はオスマン帝国の内海となった。

オデッサ市の象徴・ポチョムキンの階段。1841年に建設された。
この状況が変化するのは、露土戦争 (1768年-1774年)に勝利したロシア帝国が1774年のキュチュク・カイナルジ条約によってアゾフおよびケルチを獲得し、黒海北岸に橋頭堡を築いてからである。ロシアはそれまで首都サンクトペテルブルクほかわずかな港しか持っておらず、それも冬季にはすべて結氷するものであり、不凍港の獲得は悲願であった。この条約においてはロシアに黒海・地中海の自由航行権も認められ、ここを足掛かりにロシアは黒海へ進出していく。
1776年にはセヴァストポリに黒海艦隊が設立され、1783年にはクリミア・ハン国を併合して、完全に黒海北岸を領土化した。ここにおいて、黒海はオスマンの内海から、ロシアとオスマンの海となった。

さらに露土戦争 (1787年-1791年)のヤッシー条約によってロシア領は黒海北西岸のエディサン地方に拡大し、この地にロシアは1794年にはオデッサ港を開港した。これにより外界への出口を獲得したロシアは、以後オスマン帝国を圧迫しながら徐々に南へと領土を広げていく。この政策は南下政策と呼ばれ、ロシア外交の根幹となるが、ロシアの強大化を恐れるヨーロッパ列強諸国はこれを認めず、オスマン帝国を支援する側に回った。この黒海の制海権争いも含むロシア・トルコおよび列強諸国間の対立は、東方問題と呼ばれて19世紀ヨーロッパ外交の焦点の一つとなる。

ロシアは露土戦争 (1828年-1829年)でも勝利を収め、1833年のウンキャル・スケレッシ条約によって完全に黒海の制海権を握った。しかし、イギリスなどがこれに反発して1853年にはクリミア戦争が勃発し、ロシアは破れ、1856年のパリ条約によって黒海は非武装化され、黒海艦隊も解体されてこの海域は中立化されることとなった。

しかし1871年、ロシアはパリ条約を改定させ、再び黒海艦隊を再建した。露土戦争 (1877年-1878年)の講和条約である1878年のサン・ステファノ条約によって、ロシアは黒海西岸を中心にさらに勢力圏を南下させたが、同年のベルリン条約によって一定の歯止めがかけられた。また、サン・ステファノ条約によってブルガリアがほぼ独立し、またベルリン条約によってルーマニアが北ドブロジャを得て黒海への出口を確保した。これにより、ルーマニアの海への出口となったコンスタンツァ港、ブルガリアの玄関口となったヴァルナ港・ブルガス港の整備がすすめられた。

ロシアの進出による黒海北岸の一元支配は、北岸の経済活性化をもたらした。一元支配によりこの地方での戦乱が止むと、もともと肥沃な北岸ステップ地帯には急速に入植が進み、ロシア最大の穀倉地帯となっていった。オデッサ港はロシアの南の玄関口となり、黒海沿岸の肥沃な農地から採れる穀物の輸出港として栄えた。また、オデッサ港やロシア中央部から鉄道が延伸され、ドンバス地方の炭田やクリヴォイログの鉄鉱石を基にして、製鉄をはじめとする工業化がウクライナ北東部で急速に進んだ。

近現代社会の西アジアインフラ
第一次世界大戦が勃発すると、黒海ではロシアとオスマン帝国海軍・ドイツ帝国海軍との間で激しい戦闘が数度行われた。
1917年、ロシア革命によってロシア黒海艦隊は数度所属を変えることとなり、最終的に1920年にソヴィエト連邦の管轄下に入るものの、この間主要艦船は国外に脱出し、黒海艦隊は壊滅状態となった。1920年、大戦に敗北したオスマン帝国はセーヴル条約によって、黒海の出口にあたるボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡とその周辺地域は国際機関「海峡委員会」の管理下に置かれることとなったが、この条約に反発したムスタファ・ケマルが他国軍を追い払い、1923年に締結されたローザンヌ条約では海峡の自由通行は認められたものの、海峡管理権はトルコ共和国のものとなった。

さらにトルコは条約の改正を求め続け、1936年のモントルー条約によって商船の自由通行と軍艦の通行制限が認められ、これによって黒海沿岸諸国の地中海進出は再び阻まれた。ソヴィエト連邦が成立すると黒海艦隊は再建・増強されたものの、1941年に始まる黒海の戦いにおいて黒海艦隊はドイツの航空機の前に劣勢を強いられた。第二次世界大戦後には黒海艦隊はみたび再建され、黒海は「ソ連の海」となった。

また、貿易上も黒海はソ連にとって非常に重要であり、輸出の半分、輸入の4分の1は黒海経由で行われていた[10]。しかし、黒海の出口はモントルー条約のもとアメリカ寄りのトルコ政府が押さえており、ここから地中海方面へソ連が進出することは困難だった。

1991年のソ連の崩壊により、黒海北岸はほとんどが新たに独立したウクライナに、東岸はやはり新たに独立したジョージアに属することとなり、ロシア領は北東部のみへと大幅に縮小した。これらの新独立国を包含する新たな国家間機構の必要性が高まり、1992年にはトルコの主導により沿岸諸国によって黒海経済協力機構が結成された。このほか、2001年にはやはりトルコ提唱により黒海海軍合同任務群が設立された。

しかし、とくに北岸のロシアとウクライナの間はしっくりいっておらず、黒海艦隊の所属やクリミア半島の帰属などで対立が続いた。2007年には、ロシア・ウクライナガス紛争を避けてウクライナを迂回し、黒海のトルコ領海内を通ってロシアとヨーロッパを結ぶパイプライン、サウス・ストリーム計画が発足した。ロシアは2008年の南オセチア紛争でジョージア海軍を壊滅させると、2014年にはウクライナの騒乱に乗じてクリミア編入を一方的に宣言し(2014年クリミア危機)、ソ連崩壊後にウクライナに移管されていた艦艇も取り戻して崩壊前の戦略的状況をほぼ回復した。
黒海沿岸で最も大きな都市は、トルコのイスタンブールである。人口は1300万人を超え、ヨーロッパでも有数の大都市圏を形成している。古くは東ローマ帝国時代より、この地域の中心となる都市として栄えてきた。これに次ぐ都市は、ウクライナのオデッサである。

18世紀末に建設されたこの都市は非常に新しいが、ロシア帝国・ソヴィエト連邦時代を通じて貴重な不凍港として、また肥沃なウクライナのコムギなど農産物や工業製品を輸出する港として急成長した都市である。人口100万を超える大都市はこの2都市であるが、ほかにもロシアの軍港都市として成長してきたセヴァストポリや、1950年代より大観光地として急速に開発がすすめられたソチ、カスピ海からの原油パイプラインの終点があり、石油積み出し港として栄えるノヴォロシースクなど、特色ある都市が多い。

西岸では、ルーマニアの玄関口であるコンスタンツァ、ブルガリア北部の主要港であるヴァルナ、同じく南部の主要港であるブルガスが大きい。南岸ではイスタンブール以外にも、西からゾングルダク、スィノプ、サムスン、トラブゾンといったトルコ領の港湾都市が多数存在する。この地方の最大都市はサムスンであり、内陸部との交通の便も良いため古くから産業・商業都市として栄えた。1919年5月19日には、ムスタファ・ケマル・パシャが黒海からサムスンへと上陸し、この日からトルコ革命が勃発した。トラブゾンは旧名トレビゾントで、東ローマ帝国が一時滅亡した際のトレビゾンド帝国の首都だったところである。東岸のジョージアには、北からスフミ、ポティ、バトゥミの三つの主要港があるが、スフミはアブハジア自治共和国に、バトゥミはアジャリア自治共和国にそれぞれ属しているため、ジョージア政府は自国が安定的に使用できるポティ港への傾斜を強めている。

地政学観点で黒海を考える時に、北のウクライナ、南のトルコ、東のジョージアは、欧州を代表する国際機構、NATO(トルコは加盟)、EUへの加盟を目指しつつも実現できていない国々であり、また海を介した交流・協力・対立の歴史から、近年「黒海地域」という黒海周辺国家を一つの地域としてとらえる研究が増えている。上記の国々が所属する国際機構、黒海経済協力機構 (BSEC) やGUAM(トルコはオブザーバー)は、最終的な目標として「欧州統合」を掲げている点が共通している。

EUもまたルーマニアとブルガリアがNATOとEUに加盟したことから、その領域が黒海沿岸に到達し、安全保障及び将来の欧州統合プロセスを考える際に黒海地域に対する包括的な政策の必要に迫られていた。その結果、「黒海シナジー」や「東方パートナーシップ」などの地域イニシアチブを開始し、地域諸国との協力関係を模索している。そして、欧州とは何か、すなわち「ヨーロッパ性 (Europianity)」とは何かを考える際に、黒海地域をどのように理解するかが重要となりつつある。

黒海はボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を通じて地中海に通じ、さらに地中海からジブラルタル海峡を通じて大西洋へ、スエズ運河を通じて紅海からインド洋へと抜けることができ、ユーラシア大陸の奥深くに食い込んだ外洋の先端部に位置するため、周辺諸国にとって貴重な海運ルートを提供している。ブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ジョージアにとっては唯一の海洋であり、またロシアにとっても黒海沿岸は不凍港として、また南部の玄関口として、非常に重要である。

ソビエト連邦崩壊以降、東のカスピ海沿岸地域での石油開発が盛んになったため、カスピ海から最も近い外洋である黒海への石油積み出しが盛んに行われるようになった。カスピ海からの石油パイプラインは従来すべて北のロシア方面へと走っていたものの、カスピ海の石油産出が増加するにつれ黒海沿岸へのパイプライン建設の必要性が叫ばれるようになり、まず1997年、それまで「ノヴォロシースクからバクーへと」走っていたパイプラインを改修し、「バクーからノヴォロシースクへ」走るパイプラインが建設された。

ついで1999年、バクーから黒海沿岸のジョージア・スプサ港へのパイプラインが建設された。このルートは陸上距離が短く、建設・輸送コストが抑えられるうえロシアを経由しないため利用価値は高かったが、パイプラインとしては小規模なものだった。ついで、2001年にはカザフスタンのテンギス油田からのCPCパイプラインがノヴォロシースクまで建設され、黒海は重要な石油輸出ルートとなった。

しかし、黒海と地中海を結ぶボスポラス・ダーダネルス両海峡は非常に幅が狭く、石油輸出船の急増により船舶通航量は限界に達しつつあった。2004年にはトルコが両海峡のタンカー通行規制を強化し、その結果タンカーが黒海にて滞留する事態となった。このため、黒海を通らない石油ルートがふたたび模索され、2006年にはバクーからジョージア内陸部・トルコ東部を通り、トルコ領南東部にあって地中海に面するジェイハン港へと直接抜けるバクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)が開通し、これにより黒海の石油輸出に占める重要性は死活的なものではなくなった。

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