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パラレルワールド


「みなさんはすごく詩的だけど私はそうじゃないから」

とわたしが言ったら

「???」
「いやいやむしろ詩的そのものでしょう」

と言われ、あれっそうなのか…?

とおもって自分のnoteを読み返した。

完全に詩だった。





わたしがnoteを読んでいてたまにぐっとくる表現があってそういうのをメモに取ってある。


「生まれたての雛を抱えているような慎重なあしどりで」

「師も走り回るほど浮かれ狂う師走」

「スープの冷めない距離」

「語彙に遠慮はいらなかった」

「ドングリを並べるみたいに」


だれのどんな記事でっていうのは正直もうわからなくなってしまったのだけど、こういう表現はどうやっても自分の中から生まれないだろうなっておもってコレクションしてる。

詩人だなぁと思って素直に感動していた。



何年か前にも友人に詩人だよねと言われたことがあったし、そのときはそうなのかぁと思っていたけど、noteを書いたり読んだりしていたらわたしは詩人ではないなと思った。
例えばあるものをいかに美しいものだと感じられるか、それをどう自分の中のもので表現できるかというのが詩人で、わたしは文章を書く上でそういう作業は特にしてない。
ひたすら自分の中にあるものを表に出しているだけで、そこには情景もなにもない。あるのは自分の意識とまわりのあらゆる実体のみ。

でも、わたしの内側やそれに付随するいろいろを人に伝えたいと思ったときに、それを伝える手立てとして詩的な表現に至ったのかもしれない。もしくは、形がないものを表すときに何かの形を拝借していたら詩的に"なってしまった"と言ってもいいのかもしれない。


(ひとつだけ意識的に"詩"を書いたことがあるけれどどうにもうまくいかなかった)




最近読み返したこちらのnote、

https://note.mu/tkysh/n/n994c7ebb65d7



この考え方わたしはとてもすきで、でもこれは哲学とか考察だと思って読み進めていた。面白い考察だなと思って感心していた。でも読み終わったあとでこのnoteが"詩"というマガジンに入っていることに気づいてハッとした。
…?詩なのか…?と思って読み返したら確かに詩だった。それとともに1度目には気づかなかった美しい光景がたくさん見えてきた。詩だった。


なるほどそういうことか。





ありがたいことにわたしのこの頭の中のゴチャゴチャを表に出したnoteにコメントをいただくことがあって、(先の会話はその方々にお会いしたときのこと。)

その人たちはわたしがなにか思い描いて書いた文章に、わたしのイメージを遥かに上回る情景を思い浮かんでくださっていて、わたしはその景色を逆輸入みたいに受け取ってその気持ちの良さに浸っていました。

なのでみなさんのことは詩人なのだと思ったのです。


よく、作品を世に出したらそれ以降はそれぞれの解釈に委ねる、という主旨の話を聞くけれど、これってそれぞれの人が感じるそれぞれの美しさがその作品の価値であって人の目に晒された時点で驚くほど万様な形をみせ始めるということを自覚しての言葉なんだなと気づいて感心しました。



いつも素敵な景色をみせてくれてありがとうございます。




bakuさんが会ったときのことを書いてくださって、読んでいてなぜか涙がでました。

https://note.mu/unaharabaku/n/n3cc1f7a35f49



#エッセイ

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