文化と言語を記録する意義

現代では文化や言語の保存活動が盛んに行われている。生きている(現在も当該民族・コミュニティによって継続されている)ものや危機に瀕しているもの、あるいは死んでいるものに対しても後世の人類にこのような文化や言語が存在したということを伝えるために記述や記録が生み出されているのである。

私は学術的側面からは文化や言語の保存活動は有意義であると考えている。例えば文化人類学の人類に遍く存在する特徴をあぶり出そうという試みにおいてできるだけたくさんのサンプルを用意しておくことは大切だろう。

しかし学術的以外の意義はない。ないと断言する。かなーり性格の悪い言い方をすれば、文化や言語の保存活動とは学者のおもちゃを確保しているにすぎないとさえ言い切ろう。

ここで文化と言語を一緒くたに語ると大雑把であるので一旦言語に絞った話をしよう。言語の保存活動について。世界には消えゆく言語がたくさんあることはご承知の通りだろう。これらの言語について聞き取りや録音を行って後世に記録を残す。人類にはこれだけの様々な言語が存在したという言語の多様性をたくさんの人に知ってもらおう。そんな活動に学術的以外の価値はあるのだろうか。ないだろう。

言語とは2者間での情報伝達に使われる手段である。言語には一定の決まり事(文法や語彙、モダリティ)があり、それを共有する2者の間でのみコミュニケーションが成立する。言語の決まり事には大枠のルールはあるもののほとんどランダムに選ばれる。ランダムであるがゆえにパターンは膨大だ。しかしどのような形であるとしてもその言語を使用する集団の中で決まり事が共有されている限りは言語は機能するのである。もはや言語である必要もなく、特定の言語集団では表象動作や口笛が言語の代わりをすることも確認されている。

言語について人類が共有するべき常識は上記のことのみである。あとは各言語の中にある決まり事がランダムに存在するだけなので、その言語集団とコミュニケーションをとりたいときは決まり事を覚えていくとよい。

あとの知識は言語学を学びたい人にしか役には立たない。例外かどうかきわどいところが翻訳ソフトを作るためのコンピューターサイエンスや失語症や言語習得を扱う分野の医学くらいのもので、これらも人類の実益にはつながるものの学術的探究のためと言えなくもないだろう。

特に話者の極端に少ない、あるいは話者の存在しない言語を研究することは研究者の知的探究心を満たすことのみに寄与している。人類が文字を発明する前から言語は使われてきたし、先史時代に滅びた言語は数知れないだろう。その存在が歴史の闇に葬り去られたとして我々人類になんの関係があるのだろうか。それは全く自然なことであるし気にする必要もないのである。

ここで文化についても私見を語るが言語の場合とほぼ同じである。文化とは人類の生活様式である。様々決まり事が文化集団の中で共有される。その内容はおおまかな傾向はあるもののほぼランダム様である。それぞれの文化を研究するのはソーシャルサイエンスの学者やかつての民族学者のような趣味者たちだろう。

ここまでの文章はかなり当たり前のことで反論どころか議論する意味もないことであろうが、私がこの記事を使って否定したいと考えているのは、文化や言語を使ってアイデンティティ形成に使おうとするようなアイデアである。文化や言語の保存を人々のアイデンティティやノスタルジーの満足のためにしているという自負を持つ人間を否定しようという試みなのである。

前回の記事でヒトはこの世界に投げ込まれた存在で自分の在り方を選ぶことはできずただ受け入れるしかないと私は言った。自我を自分の肉体にくくりつけるために神話や創世記を使って自己同一性を高めていく。こうして動物だったヒトは人間となり社会の成員として活動していく。

自己同一性を高めるために自文化・自言語への愛着は非常に有用である。自分の目が見て耳が聞いて慣れ親しんだ言語や文化は自我や精神そのものよりも色濃く「自分」の顔をしている。誰か学者がその文化や言語について記述するなら、その文章は自我と自分をくくりつける依り代として機能するだろう。

だが文化や言語は時とともに移り変わる。人の生活様式や話す言葉は少しずつ変わっていくのは生きていくほどに理解できるであろう。その中のある一時点について記述や記録をされた文章が自分のアイデンティティにいつまでも影響を与えることが良いとは私は思わない。そういった文章はあくまで学術的探究や知的好奇心を満たす目的で読まれるべきである。自分の存在とオーバーラップさせて考えたところでその記述は刻一刻と古くなり現実にそぐわなくなっていくことに気づいているのだろうか。

さて、長々と書いたが、この文章は「日本人論」をめぐる議論について私なりに一般化して書いたつもりのものだ。私は日本人論が嫌いだ。端的に言って学術の顔をしたナルシズムでしかないからだ。自民族論とは「論」の字はついているものの自分がその民族に生まれたことに対する慰めのための文章であり、学術的価値も生産性もない文章である。ゆえに言語や文化の保存活動にナルシズムが絡むことを危惧している。しょせんはランダムに決まっている人間の行動様式に自我そのものを没入させる行為は狂信と変わらない。自我、自身、自分の身体について既存の文章を援用して自分に当てはめるのではなく、自分の頭を使ってじっくりと考えてほしいものだ。

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