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3.10 砂糖の日、ミントの日

休日出勤の帰り道、遊び帰りの人たちの満足げな笑みが溢れる電車を降りた私は、ピンヒールの先が震えるほどに弱っていた。
金なし、暇なし、男なし。
かろうじて帰る家だけはあって良かったと自分を慰める三十五歳。
駅から吐き出された人々の波に押し流されるように、大人しく帰路につく。
帰る家があったとしても、そこが安住の地とは限らない。最近は家に帰る足取りが重いのだ。
友達もいい人もいない、そこそこ歳のいった娘が直帰して両親と共に夕飯を取っている事実が、母親と私の心に何ともいえないダメージを与える。
駅前通りを歩く私の顔を誰かが見ている気がして顔を上げると、春の野原をモチーフにした菓子が彩るショーウィンドウに、私のゾンビのような顔が映った。それを見た私は絶望した。心がパリンと、薄い飴が割れるときの音を出したのをはっきりと聞いた。
その時だった。
「あの、よろしければ、店内今ならすぐご案内出来ますよ?甘いもので自分にご褒美、いかがですか?」
紺と白のストライプのワンピースにフリルの多いエプロンを付けた店員が私に微笑みかけた。
子鹿のような顔をした美しい娘だ。
我にかえると、私が立っていたのは店内扉のすぐ横であった。あまりにショーウィンドウを凝視して動かない私のためにわざわざ出てきてくれたらしい。
「えっと、ここは?」
「魔法使いの館をモチーフにしたカフェでございます。今は春の野原をテーマにしていて、女性を中心に大変ご好評いただいております」
休日出勤と明日からまた一週間会社に行かなければいけないという休みなきスケジュールに疲れていた私は、子鹿の目力に吸い込まれるように、気づくと装飾過多な店のソファに体を深く沈めていた。
子鹿が軽い足取りでレモンの浮かんだ水と臙脂の革張りのメニュウを運んできた。
重い表紙を開くと、明るいパステルカラーの洪水が私の目に飛び込んできた。
「あ、これ、お願いします」
ささくれだった指先で私が右上の写真を指すと、子鹿は目を細めてしっかりと頷いた。
待つ間何も考えられずにぼんやりと薄暗い店内のオレンジの灯りに焦点を合わせていると、銀のトレーを持った子鹿が近づいてきた。
「こちら、野原の息吹プレート、恋来い添えになります」
私の前に置かれた真っ白なお皿の上には、真ん中におもちゃみたいなペパーミントグリーンのミニケーキが載っていた。円柱の上に白いクリームでできたたくさんの花々、そして紫と黄色の蝶が二羽花の上で遊んでいる。
周りに添えられたストロベリーのクリームとハートに飾り切りされた苺が恋来いの由来であろう。
久しぶりに綺麗なものを見たと思った。綺麗なものを見ようとする心さえ、めまぐるしい時間の中で失われていたことを思い出す。
「こちら、ドリンクのコーヒーおつぎいたします」
グリーンのカップに銀のコーヒーポットから熱い珈琲が注がれると、辺りに芳醇な香りが漂って、少し私の涙腺が緩んだ。
「ご注文は以上でおそろいでしょうか」
「はい」
子鹿に気づかれぬよう、俯いて小さな声で応えた。子鹿はまた軽い足取りでトレーを抱えて戻っていった。
「いただきます」
銀の細いフォークをペパーミントグリーンの大地に刺す。
思いがけずサクッとした感触が伝わってくる。
クリームの花を載せて口に運ぶ。甘く爽やかな薄荷の味と、甘いアーモンドクリームがほどよく口中で溶けていく。美味しい。
決して安い値段のケーキではない。自分を大事にしている感覚が気恥ずかしくもあり、一方で涙が出るほど心地よかった。
その後も私は一心不乱に春色のケーキを食べ続けた。コーヒーもまろやかで角が無く美味しかった。
どうして私は、自分を一番に大事にしてあげなかったのだろう。誰のために働いて、誰のせいで劣等感を抱いていたのだろう。
嫌なことを感じないように心を殺して美しいものを遠ざけていた。美しいものを求めたら、手に入らない時に苦しむと思ったからだろうか。そんなことをぽつぽつと考えながら、皿はすっかり綺麗になった。
食べ終えて満腹になると、私はしばし放心状態になった。
「なんか、満足かも」
春の魔法にかけられた私は、もうさっき電車を降りたばかりの私には戻れそうにない。
ケーキセットだけで良いイタリアンのランチくらいの値段を取られることになるが、それだけのお金を自分にかけられた私が、押し込めていたもう一人の私に心の隅でありがとうと伝えられた。
「明日も頑張ろ」
細く長く、息を吐いて立ち上がる。
会計に向かって立ち上がった私のヒールの先は、もう震えてはいなかった。

3.10 砂糖の日、ミントの日
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