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9.11 公衆電話の日

夜中にこっそり下宿を抜け出した僕。
引き戸のガラスの音が響かないように、注意深く最低限の隙間を開けて、体を夜の町に滑らせた。
月明かりが綺麗な夜。忍ぶには不適切な夜だ。
僕の影がアスファルトに長くのびて、物陰からは僕の影に驚いた猫の文句の声がした。
最初の曲がり角を曲がって下宿が見えなくなると、だんだんと僕は小走りになる。
寝静まった住宅ばかりの町の中で、僕のはやる気持ちと同調するみたいにポケットのコインがジャラジャラと鳴った。
煙草屋の角まで辿り着くと、深呼吸をして息を整える。自動販売機の隣に薄ぼんやりとオレンジの明かりをともした公衆電話がある。
僕は不思議なパステルグリーン色の公衆電話の上に、十円玉のタワーを三つ作った。そして、一枚をコイン投入口に入れると、ゆっくりと一つ深呼吸をして、何度も暗唱して頭の中に暗記してある番号を呟きながらダイヤルした。
じれったい沈黙の後で、ようやくコール音が鳴りはじめる。
電話の向こう、もしかすると母親か父親が出てしまうかもしれない。だけど寝ぼけた彼女が受話器を取ってくれるかもしれないと想像の波を行ったり来たりしながら、僕は緊張のあまり少し吐き気をもよおした。
五回のコールで回線が繋がった。およそ四百キロを越えた空間の交わりが生まれる。
「もしもし、里川です」
予想に反して、しっかりと意識を持った声が返ってきた。軽やかにころころと鈴を転がすような声だ。
「あっ、僕です。三國です。春ちゃん、だよね」
なぜか僕の方が相手のいる場所を気にするように小声になってしまった。
相手のはっと息を飲む声が聞こえて、僕は向こうの雰囲気を探ろうと受話器を強く耳に押しつけた。
「廉くん?どうしたの、こんな時間に」
驚いた彼女の声が、終わりにかけて柔らかくなっていったので、僕はほっと胸を撫でおろした。
こんな夜更けに電話をして怒られたり嫌われたりしたらどうしようか、と内心どこか心配していたのだ。
「夜分遅くに本当にごめん。十円玉が、五十枚溜まったら電話しようと思ってたんだ」
里川春子は、地元の高校の後輩で、ゆで卵のような形の顔がとても可愛い。
そして、今は僕とお付き合いをしてくれている。
僕は偏差値の低い大学への進学で東京に出てきていて、彼女は今地元の隣の県の短大に通っている。
僕の仕送りはほとんど無いに等しいため、一つの缶詰めと白ご飯で何日か堪えしのんだりしながら、毎日の生活の中で大事に十円玉を貯めていった。
前回は十円玉三枚分しか話せず、ふたりでもじもじしている間に終わってしまった。
四角い電話機に吸い込まれた三十円と、切れたあとのプープー鳴る音が虚しくて、受話器を置いてからも僕は先輩に麻雀の賞品で貰った煙草を自販機の横にしゃがんでふかしながらしばらくぼんやりとしていた。
今回は五十枚もあるので、もじもじしたところですぐには通話が終わらないだろう。どうしても、最初は気恥ずかしくなってしまうのだ。
「五十枚も貯めるの大変だったでしょう。ありがとう。でも、お母さんに出られなくて良かった。もう。昼間に電話してきてくれたらいいのに」
ふふ、と笑う彼女の声に耳がくすぐったい。
「僕もすごく緊張した。でも、下宿だと家主のおばさんが年中聞き耳を立てていて、店子に電話のなかみを吹聴するし、煙草屋の婆ちゃんも、あ、今煙草屋の前の公衆電話からかけているんだけどね。そこの婆ちゃんはなんか電話をかけてるところをじっと見てくるんだよ。耳が遠いから読唇術でも使ってるのかもしれない。昼間は人通りも多いし、機会をうかがううちに夜になって、だけどいてもたってもいられなくなっちゃったんだ」
僕はもう一度、夜中にごめんということと、今更ながら親は大丈夫かと訊いた。
「うん。きょうはお母さん病院の夜勤でね。お父さんは一回寝ちゃったら地震がこようが犬がわめこうが起きないから。きょうはラッキーデーよ」
ラッキーデーという言葉に、次は無いわよと釘を刺されているような気にもなった。僕の考えすぎかもしれないけれど。
受話器の向こうでガタガタと擦れるような音がするのは、電話機を彼女の部屋へと引き入れようとしているのだろう。
「次からは気をつけるよ」
電話が切れる警告音が鳴ったので、慌てて何枚かの十円玉を投入した。
「そうしてちょうだい。何か電話をかける合図でもあるといいのだけどね」
「僕ら専用のダイヤルがあったらなぁ」
離れた距離を埋められるなにかが、気持ち以外なにもない僕らだ。手紙だって、たまには良いものだけれど、文字より声、声より実物に会いたい。
「ねぇ。わたし今、部屋が暗いからカーテンを開けてみたの」
「うん。学習机の隣のカーテン」
僕は目をつむって、過去に一度だけ行ったことのある彼女の部屋を思い浮かべた。香ばしい香りのした、彼女の部屋。
「そう。そうしたら、月光で部屋中が今レモン色になっているの。とても素敵よ」
かすかな鼻歌が聴こえる。彼女はとても機嫌がいい時に、無意識に鼻歌を歌う癖がある。
「そっちでも見えるかしら」
僕は、目を開けて住宅の屋根の隙間に月の姿を捜した。ちょうど叢雲から出たお月さまは、彼女を照らすのと同じ光で煙草屋と、公衆電話と、受話器を握る僕を照らしてくれた。
「うん。見えた。ふふ、春ちゃんと目が合ってるみたい」
僕がお月さまに微笑むと、照れたのか、気味悪がったのか、また流れてきた雲に隠れていった。
「廉くんは、元気にしてる?」
彼女の声も、少し曇った。僕たちは、寂しくなるのでお互いに早く会いたいね、とは言わない。
でも、たぶん、彼女も僕と同じ気持ちなのだろう。
想いを注ぎ込むように、コトリコトリと電話機に十円玉を入れる。
でも、僕の想いよりも随分先にこのコインのタワーが消えて、月明かりが照らすあまりに静かな夜道をひとりで下宿に帰ることになるだろう。
「元気だよ。春ちゃんは?」
沈黙が、寂しいと告げていた。受話器からこぼれて、僕の耳から心臓へと流れていくような沈黙だった。
「春ちゃん、あのね」
僕は、わざと明るい声で他愛もない話を始めた。
早く会いにいこう。
一人前になって、僕は春ちゃんを迎えに行くんだ。
今は、出来るだけ馬鹿みたいな話をして、少しでも笑ってもらうのが精一杯だけど、思わず月も顔をのぞかせるのではないかと思うほどに頑張ってみる。
十円玉タワーはあと一と半棟。
二人を繋ぐこの電話の時間が永遠になればいいのにと柄にもないことを思っては、彼女と同じ月を仰ぎ見る夜だ。

9.11公衆電話の日
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