Why, Tom Hooper, Why〜映画版『キャッツ』感想

2月1日に映画版『キャッツ』を見てきた。話題の、例の、件の、『キャッツ』である。
T・S・エリオットの『ポッサムおじさんの猫と付き合う方法』を原作に、アンドリュー・ロイド=ウェバーが音楽をつけたミュージカルである。ロンドン初演は1981年で、その時の演出はトレヴァー・ナンが、振付はジリアン・リンが担当した。
映画版はトム・フーパーが監督を務め、振付は『ハミルトン』で知られるアンディ・ブランケンビューラーである。
日本では劇団四季が定期的に上演を重ねている。ちなみに、わたしはライブは劇団四季バージョンしか見ていない。

『キャッツ』が映画化するというニュースを最初に聞いた時、わたしは結構楽観的だった。日々、様々な舞台ミュージカルの映画化ニュースが飛び込んでくるので、『キャッツ』もその内の一つ、「ふーん、映画化するのか」くらいの認識だった。また、ロンドン公演をリリース用にカスタマイズして撮影したバージョンも見ていたので、『キャッツ』を平面の画面で見る、という事態に対し呑気に構えていた部分はある。

ところが、トレイラーが流れ、イギリスやアメリカのレヴューが流れてくる内に、映画版『キャッツ』は面妖らしいことがヒシヒシと伝わってくる。
マイク・マイヤースがかつて出演した『ハッとしてキャット』のネコを彷彿とさせるジェリクルキャッツの風貌。これは意図的なのか、はたまた時間なり予算なりが足りなかったのか。かなり戸惑いを覚えた。
「玉ねぎ」だの「ポルノ」だの悪ふざけとも取れるような煽りが取りざたされたが、『ニューヨーク・タイムズ』『ニューヨーカー』『ガーディアン』の批評からも困惑は伝わってきた。
(すでに指摘されているが、『ガーディアン』の批評は劇中歌"The Naming of Cats"のパロディになっている。凝ったことを...)

はてさてこりゃこりゃどうしたものか、とビビりながら2月1日に見たわけだが、感想としては以下の通りである。
ここからは映画本編に踏み込んでいくので、ネタバレを避けたい方は気をつけてください。


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『キャッツ』というミュージカルの構造やテーマ自体は、舞台版から受け継がれており、個人的には馴染みやすかった。

「ジェリクルキャッツ」という特別なネコたちが自己アピールの舞踏会を繰り広げるという趣旨、大まかなストーリーの弧は描きつつ、別個の楽曲が連なるレヴュー形式、見捨てられし弱き者が救済されるという世界観。これは舞台版と通じ合っている。ので、構造やテーマが引っかかったという人は映画版の問題というより『キャッツ』という作品自体と相性が良くなかったのかもしれないとは思う。

ただし、映画版では「新入りが舞踏会に参入する過程」や「パフォーマンスが終わったネコの末路」や「マキャヴィティが悪事を働く理由」といった、隙間の情報を書き足しており、それが却って「ストーリーが展開しない」という印象を強めてしまった部分もあるのではと感じた。それは、映画化する際の書き換えの問題である。

ネコの風貌は慣れる。

やはり最初はギョッとするが、ネコの見た目には慣れた。

というより、ギョッとし続けることに慣れた、といった方が近い。

ネコたちの自己紹介一発目の楽曲"The Old Gumbie Cat"に登場する、人面ネズミや人面ゴキブリを見てしまったからには、人面ネコへの戸惑いなど問題外となる。
この"The Old Gumbie Cat"の場面までは、どこかでうっすら「この風貌は、やはり時間や資金の問題なのだろうか...」と考えていたのだが、人面ネズミを見た瞬間に「意図的だな」と腑に落ちた。腑に落ちてしまった。

劇中でも歌われるように、「ジェリクルキャッツ」は特別なネコとされている。ジェリクれないネコもいるだろう中で、ジェリクれるネコたちは位相が異なる存在とされている。
たとえばもし、実写版『ライオン・キング』のようなリアリスティックなネコの外観をしていたら、わたしは「ジェリクルキャッツ」たちを愛玩対象として鑑賞していたであろう。だが、それは誇り高く独自の価値観で生きる「ジェリクルキャッツ」の表現なのであろうか。
となると、ネコとも人間ともつかない不気味な風貌こそが、ネコ界における特異な「ジェリクルキャッツ」の位置づけの表れとなっていると、考えられるのだ。

このように、映画版『キャッツ』最大の鬼門であるネコの風貌については、ひとまず納得したわけだが、だからといって、わたしは映画版『キャッツ』を評価しているわけではない。
むしろ、ミュージカル映画としての出来はよくないと感じている。
その理由は、次のようにまとめられる。

・Why, Tom Hooper, Why

この感想の序盤で、『キャッツ』映画化の報でさほど驚かなかったと述べたが、正確には一点驚いた部分がある。
それは、監督がトム・フーパーと報じられたことである。

映画版『レ・ミゼラブル』で監督を務め、歌の同時録音や極端なアップショットで強い印象を残したトム・フーパーであるが、彼が音楽を聞けて、躍動する身体を写せて、無言の表現を捉えられるタイプなのかどうか、わたしは疑念を抱いていた。
そして、映画版『キャッツ』を見たことで、その疑念は外れていなかったなという感想を抱いた。

まず、音楽が導く起伏や緩急といった彩りと、映像がマッチングしていないと感じる瞬間が少なくなかった。それはつまり、振付の妙を十全に活かせていないことにも繋がってくる。
タップの見せ場のように寄って余すことなく写してほしいところでカットが細かく切り替わり、反対に舞踏会場面での空間全体が乱舞する部分で引きのショットが効果的に使われていなかったり。

また、音楽の助けを得つつ無言のうちに感情や状況を進展させることが効果的な場面で、わざわざ明言させたことで野暮ったくなった部分がある。
具体的には、グリザベラの"Memory"まわりである。
ヴィクトリアに導かれて舞踏会に足を踏み入れたグリザベラが、他のネコたちの警戒や嘲りや無視を受けつつも"Memory"を歌い出し、その歌を聞いた長老オールドデュトロノミーが天上へ上るに相応しいネコとしてグリザベラを指名するという、クライマックスである。
舞台版を見たときには、陰鬱な"Grizabelle: the Glamour Cat"のメロディに上乗せするように"Memory"の前奏が流れて歌が始まった瞬間、ふれあいを希求し接近を繰り返しつつ挫けていたグリザベラがついに、胸襟を開く歌を他者(他ネコ)に向けて歌い始めたというドラマが、すでにここに始まっていると感じた。それなのに映画版ではヴィクトリアがグリザベラを舞踏会に招き、「歌って」と声をかける。映画版の"Memory"はヴィクトリアのお膳立てで始まるのだ。ここは音楽が運ぶものを信頼してほしかった。
さらには、"Memory"を歌いきったグリザベラが天へ上るネコとして選ばれる時、映画版では音楽と音楽の狭間の沈黙の中で長老が近づき言葉で宣告を下す。だがここは、わざわざ言葉でグリザベラに告げるのではなく、沈黙が運ぶものを信頼してほしかった。
(舞台版では長老がグリザベラに近づく前に、"Touch Me"という叫びを受けたネコたちが徐々にグリザベラに触れていくという局面がある。ここでも歌われはしない。)

このように書いていると、トム・フーパーはもしかしたら音楽が先導する表現を信頼していないのではないか...?という考えが浮かんでくる。
カメラを寄ってみたり、ショットを切り替えてみたり、というのは、音楽が先導して発生する歌やダンス、沈黙の雄弁さを信頼しきれていないからなのではないか。
そしてそれは、『キャッツ』の映画化においては致命的ではないか。

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