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ときに僕はひどく悲しい。純粋な存在をロールモデルにするときの苦しみとは。

ときに僕はひどく悲しい
ときに僕はひどく悲しい
僕の心と魂の拠りどころを見つけられない
ときに僕はひどく悲しい
僕の心と魂の拠りどころを見つけられない
僕の友だちに分かってもらえない
ときに僕はひどく悲しい
こんな時代に生まれてこなければよかったんだ

(出典: I Just Wasn't Made for These Times, Brian Wilson, Tony Asher, Sea of Tunes Publisher)

こう書き出すと衝撃的だが、これが僕の世界一好きなレコード『ペット・サウンズ / ザ・ビーチ・ボーイズ』に入っているうちの1曲のミドルの歌詞を英->和訳したものだ。

悲観の極致。もう心病んで、切羽詰まっているように響く言葉だが、こういう感情、ときに誰も持つのではないかと思う。落選や不合格などの挫折を経験したり、青年期特有の葛藤だったり、あるいは失恋だったり。僕が時にこの歌詞にすごく共感するのは、別に『ペット・サウンズ』の熱狂的なファンだから、というわけではないと思っている。

『ペット・サウンズ』を製作したブライアン・ウィルソンや、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公であるホールデン・コールフィールドとか。あまりに純粋無垢な世界に行き過ぎて行き詰まった人に共感する人は多いはずで、僕は前者に強いつながりを抱く。

傷ついてきたことは、純粋に自分を信じて前進していく最中に出会う、純粋でないものとの出会いや、何を純粋とするかという価値観のぶつかり合いでありつづけてきた半生だとも思う。僕はブライアン・ウィルソンに影響を受けすぎたとも思う。でも、それに後悔はしていないし、彼の音楽がエンジンになって成功したことがたくさんある。

ただ、大変なことも多い。もし僕にとって最大の存在が明石家さんまだったとしたら、どうだろう。たまに考える。でも、彼にもきっと純粋の終焉や光の当たらない時間がある。

『ペット・サウンズ』を聴いたのは、小学校5年生のときだった。全く良さがわからなかった。当時はSpotifyなどなくて、買ってもらったCDはハズレでも必死に聴いて良さを見つけようとしたものだ。それに、自分には分からないのに、世界で圧倒的支持を得ていることを知り、「分からない自分がだめだ」とはっぱをかけた気もする。

中学校2年生の夏に、ブライアン・ウィルソンが来日して、そのライヴで演奏を聞いて、「分かった」。1999年7月12日。すでに持っているのに、帰りに来日記念盤の『ペット・サウンズ』を買い足したのを覚えている。そして中学校の卒業研究も『ペット・サウンズ』だった。

『ペット・サウンズ』に学んだのは、幸せでウキウキする時間は非常に短く貴重なものであり、相反するのでなく共存するように内省や悲観の時間が存在するのが生きることだ、というものだ。そして残念ながら内省と悲観のほうが、必然的に自分を見つめるので、結局、自己成長につながることも。

ただ、それって悲しくつらい現実だよね。

当時の妻、マリリン・ローヴェルに対して、『ペット・サウンズ』が売れなかったブライアン・ウィルソンは、「なぜリスナーもレコード会社も成長しようとしないんだ」と嘆いたエピソードがある。

『ペット・サウンズ』はコンセプト・アルバムではないし、社会へのメッセージやヒッピーやフラワーといったムーブメントとも結びつかない、ごく一般的な1枚のアルバムだが、この内省と悲観の美しさと残酷さと可能性は、密かにブライアンが伝えようと努力したことだったのではないか。そして、それを受け止めた僕は、愛と慈悲と苦しみをときに感じるのだ。

ときに僕はひどく悲しい
ときに僕はひどく悲しい
僕の心と魂の拠りどころを見つけられない
ときに僕はひどく悲しい
僕の心と魂の拠りどころを見つけられない
僕の友だちに分かってもらえない
ときに僕はひどく悲しい
こんな時代に生まれてこなければよかったんだ

(出典: I Just Wasn't Made for These Times, Brian Wilson, Tony Asher, Sea of Tunes Publisher)

日常の中で、今日も僕はこう思う。


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