自分の生きる道、選択肢の多様性

幼い時、よく友達と「何歳までに結婚したい?」とか「子供は何人産みたい?」と何気ない場面で話し合ったりした。その時に話したライフプランというのは、かなりの確率で憧れであり夢物語であった。

私は今年で22歳になり、幼い時に結婚したいと話した年齢になった。時が経つのは早いもので、近しい友人で結婚して、子供を授かった人も多い。幼い時に話したものとは異なり、かなり現実的にライフプランを考えるタイミングになったのは紛れもなく現実なのである。

「女の子なら、みんな結婚して子供を産み家事をして家庭を支える」とお約束のような固定観念、1種の常識と言っても過言では無いかもしれないが、幼い時に刷り込みのように聞いてきた気がする。結婚することが幸せ、男性に愛されるのが幸せ、子育てするのが幸せ。幸せとはこうであると、まるで答えの決まった方程式のようなものであるかのように。だからこそ女の子は容姿を磨き、愛される努力をしないといけない。

私自身、最近までこの固定観念に縛られ生きていた。私は、体型のコンプレックスも多かったし、男性に容姿を褒められた事など1度もない。それが原因で、かなり卑屈で歪んだ思考を持つようになっていた。ただ、学校での勉強はそこそこ良い成績を取れていたので、勉強という武器で高校までの学校生活は乗り越えてきた。

しかし、大学に入りあることがきっかけで私自身の価値観が180度変わった。今までなぜ前述の固定観念に縛られていたのかわからなくなるくらいに。

思春期になると女性なら初潮を迎え、出産をできる体に向かっていく。私にはそれがなかった。今でも初潮はない。病院で検査してもらったら、卵巣は無く子宮も私の年齢では考えられない程未成熟だと診断された。おそらく、ターナー症候群だろうと自分で調べて結論づけた。

ここで、ターナー症候群とは何か説明させて頂きたい。

人間は染色体が46本ある。2組ずつ23本の染色体があり遺伝情報を持っている。最後の2本が性染色体とよばれ、性に関する情報を遺伝する。ターナー症候群というのは、この性染色体の異常により発生するものだ。ただ、その異常というのは様々ある。片方が丸ごと欠損している人、染色体の数パーセントが欠損している人。それにより、本当に様々な合併症も発生する。主に知られているのは、低身長と性腺の分化、発生異常である。

おそらくこの、性染色体の異常により私は卵巣が分化しなかった。すなわち私は出産というものを経験出来ない。初め、この事実を知った時、脳内が事実を受け入れまいと拒否反応を示しているかのように、パニックに陥った。まるで気持ちの整理が出来なかった。

少しずつ気持ちの整理がつくようになり、改めてライフプランを考えた。出産というものを経験が出来ないなら、結婚をする必要があるのか?いや、そもそも出産出来ない女性を受け入れられる男性と自然と出会い、結婚まですることが、交際経験がない自分に可能だろうか?確率論で言うと、かなり低いだろう。なら、結婚して男性に養って貰うというライフプランよりかは、結婚出来なくても自分一人で一生働け、老後の貯金までできる職業を選ぶライフプランの方が賢明に思えた。

このライフプランを両親に話したら、まるで理解が得られなかった。 哺乳類にはパートナーが必要だから結婚はするべきだ、とか、ペットを飼うとパートナーが得られないから辞めとけだの言われた。私は、どこからその発想が湧いてくるのかと思った。出産出来ない体に産まれた私を軽蔑しているかのようにも捉えられた。もちろん育ててくれた事に感謝はしてるし、この体に産んだ両親を恨んではないが、尊敬するということは出来なかった。

ライフプランや、幸せの形は本当に多様なのだ。結婚ひとつにしても、法律婚にするか、事実婚にするか苗字を男性側にするか、女性側にするかなど多様な選択肢がある。しかし、その選択肢が全ての人に平等にあるだろうか?

私たちの日常には、様々な差別が溢れている。中でも、LGBTの人達を初めとしたセクシュアリティの人達への偏見の目や、差別はまだまだ大きい部分があるだろう。あまり浸透してはいないが、SOGIという言葉で全ての人のセクシュアリティを表すという考え方もある。どんなセクシュアリティの人でも、同じだけの選択肢が世の中にはあるだろうか?同性愛の人達は法律婚が出来ないし、夫婦別姓もまだ出来ない。無性愛者の人達は、理解がされない。私は、このように選択肢が同じだけない状態が差別なのではないかと感じる。選択肢があるというのは、自分らしくいられる方法を選べる事だと思う。私は私らしい選択肢を選び、これからを生きていきたい。