見出し画像

黒衣(くろご)の存在を見つける視点

   自分が生きている世界の目に見えない文脈をどれだけ認識しているだろう。
ふと、そんな疑問が頭に浮かんで、試しに「黒衣の存在を見つける」というミッションを自分に課して1週間ほど過ごしてみました。
この時、私にとっての「黒衣」の定義を次のように決めておきました。

影ながら(その人がやったとはわかりにくい形で)人を支える人

黒衣の在りようは2タイプ

   そうして見つけた黒衣である人を記録したメモを見返して分類すると、大きくわけて2つの在り方があるとわかりました。

1つは、環境を介して人を支えるタイプです。
環境やインフラを支える人は、直接的にはその人がやっている姿は見えないことが多いです。
たとえば私が見つけたのは、自転車の駐車位置を調整する駐輪場の人です。帰りに自転車を取りに戻ってくると、全体の自転車の数が増えているのにきっちり並んで駐まっていることに気づきました。駐輪場の人が、駐められた自転車を1台1台動かして間隔を整えてくれているのですね。
当たり前の感覚になっているだけで、ちょっと引いた視点で広く世界を見てみると、自分の目の前のことに多くの人が関わっていることを感じられます。

もう1つは、主語が拡張しているタイプです。
「相手の視点になって、相手のことを自分のことのように考えたり支援したりする」ことを「主語が拡張している」と表現してみました。
たとえば、親身になって相談にのる人がそうだと捉えています。私が本当にやりたいこと を一緒に考えてくれた人を思い出しました。その時間、私は私自身の気持ちと向き合っているので話の内容だけ見ると私の言葉ばかりなのですが、その言葉が引き出されたのは一緒に考えてくれる人がいたからなのです。
この姿勢は、昨今話題のファシリテーションやマネージャー、コーチングをする人にも共通するかもしれません。

言葉の由来を辿ると「黒衣(くろご)」(「くろこ」とも)はもともと日本の歌舞伎の役のことで、2種類の黒衣役があります。

黒衣(くろご)
①役者がなる黒衣:衣装の早替りや化粧直し、小道具の受け渡しなどをする
②大道具方がなる黒衣:舞台装置の操作をする。幕の撤去や背景の転換など。

人(役者)を対象にする黒衣と、環境(舞台装置)を対象にする黒衣がいるということです。この2種類と私が見つけた黒衣である人の2タイプは重なりそうな気がします。

どのようにして主語が拡張するのか

   今回は、人を対象とする黒衣(主語が拡張しているタイプ)に焦点をあてて、もうすこし掘り下げて考えてみます。
「自分のことのように相手を想う」のは、そりゃあ素敵なことだけど簡単じゃないよね……ふう。理想的すぎることが、そこに到達するまでの困難な道のりを見ないふりして語られると、どうしても現実につながってきません。ですから、どうやって(どのような考え方で)他者を想うのか、それを学ぶのに参考になりそうな知見を紹介したいと思います。

適応知性および社会的脳機能の研究を進める藤井直敬さんは『ソーシャルブレインズ入門 』という本で「リスペクト」という概念を提唱しています。
おおまかに要約すると以下のような内容です。

リスペクト:存在そのものを無条件で肯定すること。
⑴自分から与えることはできても自分に向かうリスペクトは自分ではつくれず、他人に強制もできないという一方通行の性質がある。
⑵母子関係に根ざすもので、自律性が低い状態で生まれるヒトの子どもは母から無条件のサポートを受ける。その延長で、人間は成長後も他者との双方向的な社会的コミュニケーション(社会的つながり)を欲する(「関係性欲求」)。
⑶互いにリスペクトを与えあう人がいる場では、好意的な社会的文脈が形成されて、他個体の存在から派生する認知コストが下がる
⑷リスペクトが無いと、コミュニケーションにおいて、相手を疑い、そのふるまいの意味に関して膨大なリスクを考慮しなければいけなくなり、スムーズにはいかない。

「相手を想うことで幸せを感じるでしょ?って言われてもな〜……(苦笑)」という感覚的な納得が向いていない人にとっては、社会全体を見る俯瞰的な視点で見た時に「なるほど。認知コストを下げるという点で必要なのね。」と理解しやすくなるかもしれない、と思って取り上げてみました。本書には、リスペクトがもたらす利益と経済優先型の行動戦略がもたらす利益を比較する論がつづけて述べられています。興味の湧いた方や「世の中、コスパだけが全てではないだろう」と考える方は、ぜひお手に取りください。

さて、「自分のことのように相手を想う」ことの背景は示されましたが、そのための考え方についてはまだ言及してません。これを考えるにあたって、私は「リスペクト」の一方通行性に注目しました。
もしかすると、元も子もない話ですが、まず自分がやってみるしかないのではないでしょうか。なぜなら、リスペクトの性質によると、自分に向かうリスペクトは自分では操作不可能であるためです。偶然与えられることはあるでしょうが、与えられることによって学ぼうと待ちの姿勢でいることは、なかなか不確実なように思われます。
これに似た考え方を示唆したのが、ドイツの社会心理学・精神分析・哲学の研究者 エーリッヒ・フロムという人物です。彼の著作『愛するということ』は、私の長年の愛読書です。このタイトルは原義に沿って訳すと「愛するという技術」となります。彼は、愛することよりも愛されることに関心を持っている人々の認識を指摘し、愛することは技術であり、学ぶことができると述べました。
これは裏返すと、自分で学ぶしかないということでもあると思います。その学び方は、フロムに言わせれば「理論に精通し、その習練に励む」ことだそうです。これは……ラクできそうにないですね。(笑)
さらに踏み込んで、愛を学習するためのエッセンスを知りたい…と気になる方は、ぜひ『愛するということ』を読んでみてください。

見えないけど見たいものに、名前をつける

   良い面悪い面両方あれど、人間は目に見えない概念に名前をつけることでそれらを認識し扱う能力を有しています。(「平和」や「やる気」という言葉なんかがそうです。)
人間の認識は言葉によっても影響を受けますから、見つけるより先に言葉をもっておくことも有効でしょう。私は、影ながら人を支える人の成果は見つけづらいけれど、大切な存在だと考えています。ゆえに、「黒衣」という言葉を忘れずにいたいと思うのです。

「黒衣」という言葉を持つということは、黒衣を見つける視座を持っているということです。
ぜひあなたの周りにいる「黒衣」を探してみてください、と願っております。


−   参考文献   −
藤井直敬   2010  『ソーシャルブレインズ入門 〈社会脳〉って何だろう』  講談社
エーリッヒ・フロム,鈴木晶(訳)   1991  『愛するということ』  紀伊國屋書店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?