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イナカの子(5)

 イナカの日常と非日常


【第5話: 大雨と怒れる川】

アラタが最高学年になった秋、
イナカの町を、台風が襲った。

見たことも無い豪雨が続き、
学校は休校、鉄道も止まった。

アラタは、二階の窓から
雷鳴とどろく暗い空や、
コーヒー色の濁流と化してゆく
大好きな川を見ていた。

鉄板を渡しただけの、
渡り慣れた一本橋に
上流から流れてきた倒木が
勢いよくぶつかるのも見えた。

倒木は、次々流れ着く瓦礫や
草木の残骸を纏い付かせながら、
とうとう一本橋ごと流れ出す。

それは、少し下流の大きな橋に
衝突し、更に瓦礫を積み上がらせ
遂には堰となって、川を氾濫
させてしまった。

あっという間に、床下浸水だ。

あの優しかった川が牙を剥く。
家族総出で、敷居から侵入する
泥水を掻き出し続けた。

また、アラタは二階に上がり、
窓から川を見た。

川辺に昔から立っている、
大きなシュロの木がユサユサと
激しく揺れだしたと思ったら、
根本から崩れて流出し、
橋に引っ掛かって止まった。

氾濫が、更に拡大する。

恐ろしかった。
水が恐ろしいと、初めて知った。

川の対岸に、仲の良いおじさんの
物置小屋があるのだが、
その直下の護岸が抉られていて、
物置小屋は傾いていた。

そしてとうとう、物置小屋は、
護岸と共に川へ崩れ落ち、
橋に衝突して欄干を破壊する。

川上からは次々と、
同様に流出したらしき
建材やらトタン板やらが
満身創痍の橋に流れ着く。


豪雨の音に紛れて、
防災無線のスピーカーから
町内放送が聞こえて来た。

『小学生と幼稚園児は、
ランドセルかリュックに
身の周りの物と勉強道具を
入れて通学班ごとに
学校へ避難しましょう!』


雨は降り止まない。

アラタは班長だから、
近所の班員と弟を連れて
引率の大人に付き添われながら
学校へと向かった。

通学に使っていた橋は、
もう水が被さるように流れていて
危険で使えず、上流の橋まで
遠回りをしなければならない。

子供たちの列は、無言で歩いた。
全員が雨合羽を着ているし、
雨の音が凄くて喋っても
聞こえないからでもあるが、
家に残る家族の心配と、
これからどうなるのか不安で
怖くて話す気が起きないのだ。

雨は降り止まない。

学校へ着くと、点呼をして雨具を
脱ぎ、それぞれにあてがわれた
教室に入る。

役場の防災倉庫から運ばれた
薄い布団と毛布が積んである。
今夜は皆、ここで寝るらしい。

キャンプのようで楽しそうだが、
はしゃぐ子は居なかった。
誰もが窓に張り付きながら
降り続く雨の向こうに霞む
我が家の方を見つめていた。

教頭先生がやって来て、

「よく見とけ。朝になったら
家が無くなっとるかも知れん」

と言ったので、子供たちの顔が
悲壮な表情になる。

それは、今言うべきではない。

アラタはムッとして、
窓から離れた。

友達のお母さんたちが、
おにぎりを運んできた。
ささやかな晩餐に、少しだけ
張りつめた心がほころぶ。

外はもう、真っ暗で何も見えず、
教室の中が鏡のように
映っている。

固い床、雨の音。

こんな環境で寝られるものかと
言いながらも、疲労のせいか
やがて全員が眠りに堕ちた。


翌朝、目覚めた子供たちは、
窓に駆け寄り、安堵した。

薄日が差す空の下、
彼らの家の、屋根が輝いている。

町は、壊滅を免れた。

農業用の溜め池の堤防が
決壊する危険があったが、
消防団や自治会の努力があって、
最悪の事態は回避されたのだ。

ようやく、笑顔が溢れた。

歓声が教室を満たし、
妙な踊りを舞う子もいる。
早く家族に会いたくて、
もうランドセルを背負う者も
少なくはなかった。

来たときと同じ道を、
お喋りしながら帰る。

晴れゆく空を映し、
水溜まりを雲が流れている。

「道の真ん中を歩けよ!」

引率役のおじさんが叫ぶ。

「便所の中に落ちて溺れるぞ!」

まだ、多くの家が汲み取り式、
つまりは“ボットン便所”と
いう形式であるため、
汲み取り口の蓋が流されて
境が分からなくなっているのだ。
誤って足を踏み外せば、
深い便槽にハマり、沈む危険が
大いにある。

列を離れかけた子たちも、
慌てて整列し、真ん中を歩いた。

洪水が引いた後、
近所の家のトイレの中に、
どこかのお庭の池から流された
立派な錦鯉が泳いでいた。

それからしばらくの間、
アラタたちは壊れた橋が
復旧するまで、遠回りの通学を
余儀なくされた。

いくつもの夏を過ごした
大好きな川は一変し、
重機が行き交う工事現場となり、
やがて、以前の美しい小川は
姿を消してしまった。

コンクリートの高い護岸が
延々と続く、深い川。

青々と繁る草も無く、
光る魚の鱗も見えない。

次の夏、アラタが川に入る事は
もう無いのだろう。

それでもきっと、あの川の景色は
アラタの心の中で
永遠にキラキラ輝きながら
流れ続けるに違いない。

繁殖期には、美しい虹色になる
オイカワのオスのヒレ。

葦の葉陰を飛び交うホタル。

砂の中から見つけるシジミ貝。

小枝の上で魚を狙う、
宝石みたいなカワセミの姿。

彼らは今、
どこで暮らしているのだろう?

いつかまた、この川で彼らに
会える日が来るといいな。

そうして、アラタの子供時代は
嵐と共に過ぎて行ったのだ。



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