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MAROさんの真似はできない

 日刊キリスト新聞クリスチャンプレス(クリプレ)のコラムの執筆者のひとりで、MAROさん(横坂剛比古さん)というかたがおられます。ツイッターにものすごくたくさんのフォロワーさんがおられ、またご著書もたくさんあります。私はMAROさんの記事を見るたび、「この人の真似はできないなあ」と思います。

 (以下にMAROさんの記事のリンクをはります。2021年11月10日現在、最新の記事へのリンクです。)


 私の知っている人で、ピアノの先生がいます。その人がよく言っているのは、「生徒さんにこれを言うと『へえ!それは知らなかった、先生すごい!』ってなる話題」がいくつかあって、長年のうちにそういう引き出しをたくさんためていて、じょうずにレッスンをするのだそうです。これは私もわかります。私はかつて数学の教員でした。数学でも「これを言うとみんなすごく驚いて興味をひかれる話題」というものがあり、うまい教員はそういう話題をたくさん蓄えていて、じょうずに授業を成立させているのでした。私はそれがへたすぎて教員をやめさせられるはめになっているのです。

 それはどういうものかと言いますと、古い番組では「トリビアの泉」とか、あるいは「パネルクイズ アタック25」(いまこれを書くので少し調べまして、この番組は終わっていることを知りました)みたいなもので取り上げられていた「わかりそうでわからないような問題」とか「それを知ったらすごくうれしくなるような豆知識」の類です。数学用語ですが「自明」のことを「トリビアル」と言いましたので語源は同じだと思いますが「トリビア」とは「ムダ知識」と番組では言われていました。しかし、実際には「知って得した気持ちになる豆知識」です。こういうものは、「どういう知識は一般人は知っていて、どういうことは知らないのか」ということの見極めが大切です。つまり「常識」というものをはっきり認識していなければなりません。たとえば、どんなにすごいことを知っていても「その群を基本群に持ち、普遍被覆が可縮であるような空間がホモトピー同値を除いて一意に存在してそれをアイレンベルク=マクレーン空間と言い、そのコホモロジーを群のコホモロジーと言う」というようなことを言っても「なんのこと?」と言われてちっとも感心してもらえないようなものです。もう少しキリスト教っぽいことを言うと「聖書のうち、最も短い福音書はマルコによる福音書で16章からなり、最も長い手紙はローマの信徒への手紙でやはり16章からなるが、この2者はページ数ではずっとマルコのほうが長い」とかいうことも、聖書に関心のないかたなら「なんのこと?」でしょう。私は小さいころから「非常識」と言われてきました。「常識」とは「多くの人が暗黙のうちに共通して了解していること」です。私は「多くの人」ではなかった(少数派だった)ので、これが逆立ちしても理解できなかったのです。これを「発達障害」と言います。だから私にはMAROさんの真似はできないのです!

 というわけで、これはMAROさんへの「ひがみ」みたいな記事ですが、こうして皆さんに吐き出して、少しでもひがみを緩和しようとしているわけです(笑)。ちなみに私のファンは「広く浅く」ではなく「せまく深く」で、私は一部の強烈なファンのかたに支持されています。漫画家さんでもミュージシャンでもそういう人はいますよね。私のファンは「マニア」ですよ!

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