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みんな見ないで信じすぎ

中高の教員だったころのことです。オーケストラ部でチェロを弾いている生徒さんがいました。彼には俳句の才能があり、オケはやめて文学部という部活に入りました。「結ひなおすポニーテールや夏来る」などは優秀作品として入選し新聞に載りました。女の子が、汗をかいてポニーテールを結い直しているのを見て夏の訪れを感じたという句ですね(この俳句、いまでもネットで出ますね。身バレしますね)。それはともかく、彼が「生徒の聖書研究会」に来たことがあります。私がお話をしました。「見ないで信じる人は、幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)ということについての話です。私の話を聞いて彼は「あらゆる授業は見ないで信じることの連続ですね」と言っていました。

たとえば、「縄文式土器」。誰が発掘したの?どの地層から出たの?証拠は?あるいは「応仁の乱」。誰が見て来たの?あるいは「ネアンデルタール人」。あるいは「おしべとめしべ」。確かに、毎授業、見ないで信じることの連続です!

数学というのは、徹底的に「見ないと信じない」学問です。どんな主張にも必ず「証明」(根拠。それが成り立つ理由)が書いてあります。しかし、学校では「なぜマイナスかけるマイナスはプラスになるのか」をずっと考えていたら落ちこぼれるのであり、とにかく訓練を積ませ、感覚をマヒさせ、とにかくマイナスかけるマイナスはプラスになるのだと、あるいは分数の割り算は上下をひっくり返してかけるのだと、思考停止状態になるまで「調教」するのを「教育」と言っております。教育とは「考えさせないこと」だったのです。

たとえば、私はじつは名古屋に住んでおりますが、九州で大きな台風の被害があったと報じられれば、教会でも九州の台風の被害を覚えてお祈りをするものです。ところで以下の話は当たり前なのですが、台風が九州を抜けて韓国や北朝鮮に行くやいなや、とたんに報道はされなくなります。それは、韓国の人は日本のNHKなど見ていませんから、日本の放送が日本の天気だけ報道するのは当たり前です。それが天気予報というものです。しかし、お祈りに国境はないはず。でもみなさん九州の台風は覚えて祈りますけど、韓国や北朝鮮に台風が行っても祈る人って少なくとも私は見たことがないのですよねえ。

それを言ったら、ロシアとウクライナが戦争をしていることだって、まったくテレビも新聞も報じなかったら、われわれは知らないのではないですか。安倍元総理が亡くなったことだって、テレビや新聞が報道しなかったら、知らないのではないですか。そのなによりの証拠が、九州の台風は祈るけれどもその台風が韓国や北朝鮮に行ったらもう皆さん祈らないということです。

皆さん「百三十億年前にビッグバンがあって」と言います。見て来たの?いや科学者が根拠をもって言っている?では、その天文物理学者の学会発表を生で聴いたのですか?あるいはビッグバンの原論文を読んだのですか?おそらくほとんどの人は、それをテレビでやっていることを「丸信じ」しているだけでしょう。いっぽうで、「聖書に書いてある」ということが最大の根拠となる人もいます。世界の始まりは?「神は言われた。『光あれ。』すると光があった」(旧約聖書創世記1章3節)。それは誰が見て来たのですか?そのころ人類はいなかったはずですけど。いずれにせよ「テレビの言うことを信じる人」と「聖書の言うことを信じる人」というのは共通します。自分で見ていないのに信じているところが。

田川建三さんという聖書学者がおいでになります。私は5年前には彼の『新約聖書 訳と註』をすべて読みました。最後の『黙示録』の巻には、単純な誤字脱字だけで30箇所以上発見し、出版社さんに報告した記憶があります。私の教会の牧師は、田川さんの論を丸のみにしています。いっぽうで田川さんの本を「毛嫌い」する人たちもおいでになります。私は「全部読む」くらいですから、基本的に田川さんの言うことには賛同しているのですが、ただし田川さんが「学問的に論理的」かというとそれはまゆつばものだと思っています。田川さんの論の根本には、彼の「強烈な思い込み」があると私は見ており、それをもとに田川さんは自論を構築しているので、土台からゆるがせられる可能性があると思いながら読んでいるのです。にもかかわらず世間の人は田川さんの論を「丸信じ」するか「毛嫌い」するかばかり。皆さん、もう少し自分の頭で考えましょうよ…。

少し細かい話になりますが、1箇所だけ、田川さんの「詭弁」を書いておきましょう。使徒行伝の27章で船が難破し、全員が助かった話で、田川さんはその人数を「およそ七十六人」(37節)と訳しています。聖書協会共同訳は「二百七十六人」(注にいろいろ書いてありますけど)です。田川さんは「二百七十六人」と「およそ七十六人」は、ギリシア語ではほとんど差がないと言っています(これは、私はギリシア語が読めませんので丸信じするしかないです)。そして、使徒行伝の著者だと言われているルカは、「イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり」(ルカ3章23節)とか、「この話をしてから八日ほどたったとき」(ルカ9章28節)とか、確かに「およそいくついくつ」と言うクセがあることは確かのようです。それを根拠に田川さんは使徒27章37節も「およそ七十六人」と読んでいるわけですが、皆さん、「およそ七十六人」って言いますかね?「およそ七十人」とか「およそ八十人」とかならわかりますけど…。「およそ三十歳」ならわかりますけどね。キリがいいから。「およそ二十九歳」とか言わないでしょ。これについて田川さんが用意している反論は以下のようです。すなわち、昔はコピー機などなかったので、聖書なども手で写したわけですが、写せば写すほど「わかりやすく」直っていく傾向にあるわけです。確かにね。ベートーヴェンの楽譜ですらその傾向にあります(ベートーヴェン本人が書いたもののほうが「不自然」)。わずか200年前のベートーヴェンの楽譜ですらそうですから。だから田川さんが言いたいのは、不自然な読みである「およそ七十六人」のほうが本来の読みだったのではないか、という理屈なのですよね。しかし、これ詭弁じゃないですか。そこでその論法を出してくるの。私はたまたま専門が数学であり、小学校の算数の教科書で(中高の数学の教科書もですけど)、最も教科書の執筆者が理解していないことは「概数」(がいすう。おおむねの数。「およそ」)であることは見抜いています。だから田川さんのこの詭弁に気づいたわけですが、おそらく田川さんの論も、あちこちでこういう論が展開されているのではないかと思って読んでいるわけです。皆さん、そんなことも見抜けないで田川さんの論を「丸信じ」かもしくは「毛嫌い」しかできないのですかと思ってしまうのですが。

細かい話が続きました。話を戻しましょう。とにかく私から見ると、みなさん「見ないで信じすぎ」です!「見ないで信じる者は幸いである」って、イエスさまはそういうことが言いたくて言ったわけではないと思いますよ。だいたい「見ないで信じる者は幸いである」って、どの日本語訳の引用でもないのに、それを突っ込んで来た人すらいないのですから。皆さん聖書すらも見ないで信じている証拠だし。みんな見ないで信じすぎ!

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