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苦手なことは人に頼る

 私は46歳の既婚男性です。40歳のときに発達障害の診断がくだりました。できないこと、苦手なことが多すぎて、いまの職場を辞めざるを得なくなりました。ここまで極端な状況にない人にもおすすめしたい生きかたがあります。「苦手なことは人に頼る」という生きかたです。

 「人に頼る」という選択肢がないと、すべて自分で問題を解決せねばならなくなります。これはしばしばとてもつらいです。人に迷惑はかけたくないからだと思います。あるいは、自分はそもそもいま困っているのかどうかも認識できていないことがあります。「自分はいま困っている」ということを言葉に表すこともできなかったりします。だから誰かがいてくれたら、自分がいま困っているのだということがわかります。そうしたら、人に頼るという選択肢が出て来ます。「頼り上手」である必要はないと思います。私自身、人に頼るのは苦手で(それにしては人に甘えっぱなしですけど)、それが出来ていればこんな目にあっていないよ、というところなのですが、世の中には思ったより親切な人がおり、助けてくれるものです。たいしたことでなくてもいいです。例えば聖書に出て来る盲人の物乞いがイエスに助けを求めて見えるようにしてもらえるという例まで出さなくていい気がします。もう少し、たいしたことのないことでも、ちょっと人に頼ったらいいのだと思います。

 人に「頼られる」というのは、うれしいことです。去年のあるとき、ある先生が、本を出そうとしていました。共通の友人が、私は校正が得意であることを言ってくれて、その先生は、「あした1日で見てもらえる?16万字あるけど」と言いました。私はがぜんやる気になって、「やります!」と言って、翌日は張り切って(張り切り過ぎましたが)その本を校正しました。頼られたらうれしいのです。もちろん、あまりに頼られ過ぎると嫌になって「自分でやれよ」と言いたくなるのかもしれません。それは、お互いに人間ですから、衝突はあります。人に頼ろうとして断られることも多々あります。嫌がられることも多々あります。でも、あきらめずに人に頼っていると、助かる可能性があるのです。SNSで「いいね」を押してくれる人だけでもどれほどメンタル面で支えてくれるかわかりません。それで食えるわけではないでしょうけど、生きるモチベーションになります。

 そして、助けてもらうのと助けているのはそれほど差がありません。支えたり頼ったりするのは、一方的なものではないからです。数少ない私が助けているつもりの人から、私はどれほど支えられているかわかりません。さっきの先生も、校正を頼むことによって、私が張り切って生きがいを見いだすことができることをわかっていて私に頼んだのではないかとさえ思うほどです。このように都合よく世の中を見るのです。あるとき、ネットで、不登校です!助けて!ただし説教はしないで!という中学生がいました。私は(珍しく)その子を助けようとしました。しかし、結局、私がその子に助けてもらっています。出会いというのは不思議なもので、偶然の産物ですが、そういうちょっとずつ助けてくれる人がたくさんいたら、生きていけるのではないでしょうか。

 人に頼って生きる。ごはんだって、電気だって、上下水道だって、誰かが支えてくれているから生きていけるわけです。知らず知らずのうちにたくさんの人に助けてもらって生きています。そして、気がついていなくても自分も誰かの助けになっていますしね。困っているのは障害者だけではなくてみんななのです。人に頼らないと生きていけないのは自分の欠陥だということではありません。あえて言えば、みんな欠陥があるから互いに補い合って生きていけるのだということになります。苦手なことは人に頼りましょう!

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