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地上ではよそ者

ある牧師さんが、本に書いていました。安直に天国というものを出すことによって、目の前の世の不条理をごまかすことがあってはならないと。一理あります。そうだとも思いますが、一方で、目の前の不条理を生きざるを得ない人が世の中にはいて、とてもこの世では報われないと絶望している人のために、「天国」という「ごほうび」があるのではないでしょうか。

私は、25歳の精神障害で博士論文が書けなくなって以来、苦しみ抜いた末に、中高の教員になる決意をしました。28歳くらいのころだと思います。東大では、「中高の教員になる」時点でかなりの「落ちこぼれ」でした。東大の教職の授業で先生が「でもきみら、どうせ教員にはならないんだろ!」とおっしゃったことが忘れられません。そのときの私も実際に教員になるつもりはありませんでした。しかし、大学院も博士課程まで行って、それで中高の教員になるとは思いませんでした。

しかも、なってみたら、中高の教員は非常に向いていないのでした。それは、勤めた初日からもう明らかでした。入学式の初日から失敗の連続で、当時の日記を見ると、読むだけで冷や汗の出るような失敗を、大げさでなく毎日のように繰り返しています。それを必死で反省する自分の健気さと空しさ…。あるときは、授業中に生徒から「かんちょう」をされ、睾丸を握られました。そういうことは日常だったのですが、なぜ覚えているかと言いますと、たまたまそのときは担任の知るところとなり、彼らは1週間の停学となったからです。「ざまあみろ」とは思いませんでした。「申し訳ない」と思っていました。しかし周囲の教員からは「お前の指導力不足だからな!」と言われていました。返す言葉もなく、ただ日記に反省の言葉を書いていました。読み返すとひたすら「つらい」日記です。「すべて自分のせい」という日記です。

そんなとき「私たちの国籍は天にあります」とかいう聖書の言葉がなぐさめとなったのです。ある別の人が言っていました。キリストとは、苦しむ人の気休めとして、考え出された人物ではないかと。また別の人が、イエスの奇跡物語はすべて作り話ではないのかと言っていました。身もふたもない話ではあります。でも、それで苦しむ人が救われるなら、気休めでもいいではないですか。

あるとき、ネット上で、貧困に苦しむあるかたと出会いました。小さいお子さんがいて、ご主人の収入も少なく、困っておられました。私にできることなどありません。そのかたはキリスト教や聖書はご存知ないかたでしたが、以下の言葉に救われたとおっしゃっておられました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。(中略)彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです」(新約聖書ヘブライ人への手紙11章13節以下)。私も励ましとして来た言葉です。この世の苦しみを天国でごまかしてもいいではないですか。以前の聖書ではここは「仮住まい」と書いてありました。仮住まいという言葉に励まされる人はたくさんいたのです。この世で苦しんで、死んでも苦しむのだったら救われません。せめて死んだら神様のもとで憩いたい。「永遠の命」という言葉は、「究極の気休め」と言えるのかもしれません。

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