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「常識的すぎない」「マニアックすぎない」ことの難しさ

 おはようございます。本日のお話は、私の話によく出てくる「多数派」「少数派」の話のひとつのヴァリイエイションだと思いますが、「どういう話が多くの人に受けるか」(「私はなぜフォロワーが少ないか」)などを分析したものにもなっていると思います。よろしければお付き合いくださいませ。

 まず、このお話は、最近知り合った、あるメールでの文通仲間から聞いた話に多くインスパイアされて書いています。したがって、最初に謝辞を書こうと思いました。ありがとうございます!

 まず、クイズの作問の話です。そのかたから学んだことは、「やさしすぎる問題はよくない」ということと「マニアックすぎる問題もいけない」ということです。これだけ読むと、「当たり前ではないか」と思われるかもしれませんが、これがなかなか奥の深いことですので、少しずつご説明して参りますね。

 まず、「やさしすぎる問題はいけない」。これはわりとわかりやすいです。「常識」の範囲の問題だと、多くの人が答えられますので、クイズ問題として成立しないのです。(私なりの「常識」の定義。「多くの人が暗黙のうちに共通して了解していること」。)これはわかりやすい話です。

 つぎの話です。「マニアックすぎる問題はいけない」。これはどういうことか、以下に説明いたしますね。

 私は、6年程前、日本聖書協会の主催する「聖書クイズ」に出場したことがあります。私が率先して出たわけではなく、3人1組で出場するルールでしたので、仲間に誘われて出場したのですが、結果的に、私も大いに楽しんでしまいました。

 例題として、以下のような問題がありました。「ザアカイが登った木は何の木か」。これは、聖書クイズとしては成立しますが、一般のクイズ大会、たとえばテレビ番組「アタック25」の問題としては、非常な悪問となります。なぜかと言いますと、多くの一般の人(聖書になじみのない人)にとっては、「ザアカイって誰だ?」ということになりますでしょう。もちろんザアカイが木に登った話も多くの人は知りません。そして、仮に正解(正解は「いちじく桑」です)を知ったとしても、「いや~、それは知らなかったなあ~、いいことを知ったぞ!」という満足感を得られることもないのです。「だから何?」です。これが、この問題が一般のクイズ問題だったら悪問である理由です。「マニアックすぎる」のです。

 ところが、この問題は、「聖書クイズ」(日常的に聖書に親しんでいる人を対象としたクイズ大会での問題)では、通用する問題です。日常的に聖書に親しんでいる人にとって、「ザアカイが木に登った話」はとても有名です。しかし、「その木が何の木か」まで覚えている人は必ずしも多くなく、とてもいい問題だということになります。(その証拠に、私はこの問題は答えられませんでしたが、とても記憶に残っています。)

 (もちろん、「聖書クイズとしてもマニアックすぎて悪問」はたくさんあり得ます。たとえば思いつきですけど、「アシュケナズの父はだれか?」みたいな問題。ほとんどの人にとって、「アシュケナズってだれだよ」ということになりますし、仮にアシュケナズの父の名を知っても、うれしくもなんともないでしょう。)

 (脱線です。著名なピアニストで指揮者のアシュケナージという人がいますが、この人の名前はヘブライ語系だということがわかります。上の「アシュケナズ」は、旧約聖書の人物です。)

 クイズの作問というのは、その「見極め」が大切であることを学びました。やさしすぎてもいけないし、マニアック過ぎても興ざめになります。そのへんの「どこまでが常識か」という「見極め」が大切なのです。

 クイズの話題から離れますね。つぎの話題は、だいぶ前に流行った、「トリビアの泉」という番組についてです。古い番組なので、若いかたはご存じない可能性があるかと思いますが、「トリビア」という言葉は現代まで残っているようですので、とくに説明はしないことにいたしますね。「豆知識」のことです。

 これも、「だれもが知っている話題」では、番組は成立しません。当たり前すぎるからです。かといって、「マニアックすぎる話題」も、おもしろくありません。世の中には、いくらでもマニアックな話題はあります。しかし、「トリビアの泉」が提供している(していた)話題は、「知っておもしろいと思える話題」でした。これも「見極め」が絶妙に難しく、この番組を成立させるような「トリビア」を提供することは、非常に難しいことと言えると思われます。

 たとえば、「トリビアの泉」で紹介されていた「トリビア」のひとつとして、「豚に真珠はキリストの言葉である」といったものがありました。これは、多くの聖書愛読者(私も含めて)にとっては「それはそうですけど」としか言いようのないものですが、こういうのが、多くの人の興味をそそるわけです。

 ふと今、思いついた「トリビア」として、以下のようなものは、「通用」するでしょうか?すなわち、「テレビなどに出ているタレントさんの、『タレント』という言葉の由来は、聖書に出てくる通貨の単位『タラント』から来ている」。ごめんなさい、これ、たった今の思い付きなので、たぶん不適切なネタでしょうね。マニアックすぎる可能性がある。それほどおもしろくない可能性がある。逆に聖書を知っている人にとっては当たり前か?もしかして、一般の人にとっても当たり前?そのへんの感覚が、私には決定的に欠けています。

 つぎの話題に行きます。友数(ゆうすう。友愛数(ゆうあいすう)とも。友愛数のほうが標準的な言い方か?)という数学の概念があります。私は、この概念について耳にしたときが、人生で、2度、あります。しかも、その2度は、極めて近接しています。いまからおよそ15年ちょっと前の話なのです。(以下、「数学の話はあたまが痛くなる」というかたには、数学的な内容にかんしては、読み流していただいてだいじょうぶです。)友数とは、2つの自然数A,Bのペアのことであって、Aの約数(自分自身を除く)の和がBとなり、Bの約数(自分自身を除く)の和がAとなるような組のことです。(220、284)は友数の例です。

 はい、数学の難しい話は終わりました。(じつは、それほど難しくないから、以下の話が成立する、という流れなのですが…)

 友数について、私が知った最初の機会。そのころ、私は、ついに大学院を辞め、中高の数学の教師になるという決心をしていました。教会で、そのことを知ったある高齢のご婦人(中高数学教師の長いキャリアをお持ちのかた)が、満面の笑みで(笑顔のすてきなかたでした)、しかし、「それはまあたいへんな…」とおっしゃっていました。ご自身の経験から、中高の教師がとても厳しい仕事だということをわかっておられたのでしょう。そして「…中学生には、友数とか、ね」とおっしゃいました。どうやら、これは「中学生の食いつきのよい話題」の筆頭らしいのです。そのかたは、ほんの少し、「コツ」を教えてくださったのでした。

 友数について、私が知った2番目にして最後の機会。上の話の直後のことです。これも、私が大学院を辞めて中高の教師になることを知ったある教会のご婦人が、私に1冊の本をくださったのです。小川洋子『博士の愛した数式』でした。有名な本ですね。当時、新刊に近かったと思います。この本に、「友愛数」(友数)は出て来ていたのです!

 私の大学院での専門は、「幾何学(位相幾何学)」でした。『博士の愛した数式』の博士は、おそらく整数論が専門なのではないかと思われます。それはともかく、私は、専門が異なるため、友数という概念は知らなかったわけです。

 数学というものは、世の中の、最も受けないことのなかでも、最も受けないことのひとつです。それにもかかわらず、『博士の愛した数式』という本は、非常な好評を博しました。あれから15年以上がたつ現在でも、この本を喜んで読む中高生は多いです。これも、非常に「見極め」のうまい本なのです(それだけではないと思いますが)。友愛数に限って言っても、最初に出て来た高齢のご婦人は、ご自身の長い数学教師としてのキャリアから、これが中学生に食いつきのよい話題であることを知っておられました。そして、小川洋子さんは、作家としての鋭いカンなのか何か知りませんが、やはり、一般人に食いつきのよい話題として「友愛数」を出しておられる。私にはないセンスです。私は、「できることとできないことの差の激しい人間」であることは、何度も申し上げておりますが、じつは「知っていることと知らないことの差の激しい人間」でもあります。知っていることは極端に詳しいのですが、知らないことは徹底的に知らない。それで叱責されることも多いわけですが、とにかく、「非常識な」人間です。どのような話題を出すと感心されるのか(「中学生に友数の話をするとウケる」とか)、まったくわからないのです。そこを「見極める」のは、私の極めて苦手とするところです。

 また話題を変えますね。「厳選クラシックちゃんねる」さんというYouTubeのチャンネルがあります。私も何本か見たことがあります。たくさんのフォロワーさんを抱えておられます。私のようなクラシック音楽マニア(?)からすると、どうということのないことを話しておられます。そもそも、そんなに作曲家のエピソードを語るくらいなら、音楽そのものを聴こうよ、と思ってしまいます。しかし、このチャンネル、ものすごく「見極め」がうまいのです!どういうことを言ったら、ふだんクラシック音楽を聴かない人にも、「なるほど!ためになった」と感心してもらえるか、ということを、熟知しておられるのです!それで、たくさんのフォロワーさんがいるのですね。

 これ以上、同じような例を挙げてもしようがないかもしれませんが、あとひとつ、例を挙げますね。ツイッターに「上馬キリスト教会」さんというアカウントがありました。過去形で書いてすみません。あります。ひところ、ものすごい勢いでフォロワーさんを増やしておられました。どういうアカウントかと言いますと、「キリスト教にかんする『なるほど』と思ってもらえるネタ」をじょうずに発信し続けている(し続けていた)アカウントなのです。その「見極め」(どういう話題が一般の人にウケるか)が、非常にうまかったのです。(いちいち過去形で書いてすみません。いま、ひところの勢いがない気がして、どうしても過去形で書いてしまいます。すみません。)私はずっと「…見極めがうまいな…」と思って見ていました。私のような信者からすると、一見、「当たり前」のことばかり書いてあります。しかし上馬キリスト教会さんは計算ずくで、「どのような話題は、一般の人にとって目新しくてウケるか、また、どういう話題はマニアックすぎてウケないか」ということを見極めておられました。たくさんの、信者でない人のフォロワーさんがいました(います)。キリスト教の信者の減少をなげく人たちのあいだでは「あれに学べ!」という意見も聞かれました。じっさいに真似しているアカウントもありました。しかし、「上馬キリスト教会さんに学ぶ」ということは、極めて難しいことです。それは、ここまでこの文章をお読みになったかたならば、お分かりいただけると思います。「上馬キリスト教会さんに学ぶ」ということは、たとえば「アタック25で良問を出すくらい」、あるいは「トリビアの泉で、良質なネタを提供するくらい」、難しいことなのです!そして、その「見極め」のできる人が、フォロワーさんが多い!そして、その能力(「見極める」能力)の決定的に欠けている私は、フォロワーさんが少ない!ということなのです。

 (多数派:常識を共有している人たち。もう一度、私の「常識」の定義を書きますと「多くの人が暗黙のうちに共通して了解していること」。私は、常識の理解できない少数派です。これ、「多数派が常識を共有している」とか「少数派は常識を理解できない」とは言っていませんよ。「多数派が共通して了解しているものを常識と呼ぶ」と言っています。たとえ「非常識」と言われることでも、もし多数派が認識していることだったら、もはやそれを「非常識」とは言わないでしょう?それはもはや「常識」でしょう?私の言っていること、通じますか?)

 本日の話は、「当たり前すぎる」話でしたか?私にとっては、大発見だったのですけど。

 最後に、この話題を提供してくださったかたから、高い評価をお受けした、私の作ったクイズを紹介して終わります。私がこのクイズを作ったのはかなり前ですが、まず誰も解けないし、答えを教えても、感心されないので、腐っていた問題ですが、ここへきて、高評価をいただきましたので、お出しします。かなり難しいクイズということになるようです。

 問題。
 以下の○に当てはまるカタカナ一文字を答えよ。
 「ソ、シ、レ、ミ、シ、○、シ、…」

 これは、正答する人が極めて少ないので、答えを書いてしまいますね。「ヨ」です。

 これは、一見、音楽の問題のように見えますが、じつは音楽の問題ではありません。これは、聖書に含まれる書の書名を、聖書の冒頭から、その頭文字を並べたものです。すなわち、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の頭文字を並べて「ソ、シ、レ、ミ、シ」です。聖書の6番目の書物は「ヨシュア記」であり、したがって答えは「ヨ」になります。(7番目は「士師記」で、また「シ」。)

(よく考えてみると、「ソ、シ、レ、ミ、シ」という音型の音楽も存在しますね。ドヴォルザークの「ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ト長調op.100」の冒頭のヴァイオリン・パートは「ソ、シ、レ、ミ、シ」で始まりますね。)

 そのかたとは、ひんぱんに文通いたしまして、この「1年くらいに及ぶ休職生活」に、かなりハリが出ており、ほんとうに感謝しております。ありがたいことです。本日は以上です。ありがとうございました。

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