「多様性」という便利な言葉

新学期を迎え我が子達もそれぞれ一つずつ学年が上がり、ますますパワフルに日々を過ごしています。

そんな中、小学3年生になった次男のクラスで先日行われた懇談会での話をしたいと思います。

新しいクラスでの初の懇談会と言うことで、保護者が一人ずつ新しい担任の先生や他の保護者に向けて自己紹介と自分の子供がどういった子かを紹介すると言った流れになりました。

そこで「うちの子はすぐに手が出てしまいますが本当はみんなと仲良くしたいと思っているはずなので仲良くしてあげて下さい」と自分の子供について紹介した保護者がいました。

しかも1人じゃありません。

最初にそれを言った保護者の紹介を聞いて.それに便乗したと言うのも多少あるのかも知れないですが、それでもこんなに?と驚くくらいの数の保護者が同じように自分の子供の事を紹介していました。

申し訳ないとは思いつつ物凄く気持ちの悪さを感じました。

これが保育園での出来事であれば特に取り上げる程の事でもないのかも知れません。

しかし小学3年生にもなろうと言う子供を紹介するのにまさかこのような事を.しかも複数人の口から聞くことになるとは思いもしませんでした。

つまり人に対して暴力をふるう小学3年生の子供を注意し、なぜ人に暴力をふるってしまうのがよくないのかを説き、穏和に人と接する事ができるように促すのではなく、この子はそういう子だけど内心では仲良くしたいと思っての行動だから.気持ちを察して受け入れてあげてくださいな、と言う事を訴えている訳です。

これは多様性と言う言葉が広まっていった事による弊害の一つなのかなと感じます。

僕は多様性というものを認めないと言う思想を持ち合わせている訳ではないですし、先の話のようにすぐに手が出てしまうと言うのも.確かにそういう子もいるよなとも思います。

しかしこの多様性というものを考えるときには一方向からではなく両面あるいは多角度的に考えなくてはならないと思っています。

例えば先のような状況であった時に、1番最後の保護者が「うちの子は自分からは決して手を出す事はありません。しかし一発でも攻撃を受けようものなら必ずやり返します。二度と手出ししたくなくなるまで徹底的にやり返します。なので気を付けて下さい」と自分の子供を紹介したらどうでしょうか?

我が子の暴力性を受け入れてもらうのだから必ずやり返す子の事も受け入れるべきです。

しかし暴力をふるってしまう子には(保護者が言うには)悪気がある訳でなく.仲良くしたい気持ちの裏返し的な行動である訳ですから、やり返される事に対して受け入れ難い感情を持つかも知れません。

これが多様性を巡って起こる矛盾というやつです。

つまりそもそも受け入れてね.と言うスタンスを取ること自体が多様性において間違っていると言えます。

多様性と言う言葉が一部では.世の中の人達と同じようにできない事への言い訳として都合よく解釈されているように感じます。

多様性とは受け手側に備わった美徳であって張本人にとっての免罪符ではないのです。


以上でーす。

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