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災いと芥川龍之介 第七章 !

この章の魅力:世界の詩的構造

無言のままそっと兄の唇にキスした。

ドストエフスキー(一八二一 - 一八八一)『カラマーゾフの兄弟』

自分は首を前へ出して冷たい露のしたたる、白い花弁はなびら接吻せつぷんした。

夏目漱石『夢十夜』「第一夜」

――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮すゐれんの花を何時いつまでもぢつと仰ぎ見てゐた。

芥川龍之介『沼』

接近をたくらむ私の唇は何度も宙に迷ったまま見当ちがいの肩先なんぞへ不様にへばりつくのでした。

澁澤龍彥「撲滅の賦」

という風で、睡蓮は遠のくキスを心待ちにしたままで居ます……

『春の心臓』、愛蘭土の詩人イェイツ(一八六五–一九三九)の作。

二人は、湖水のまん中の小さな浮島のような地点に二匹の水鳥のように寄り添って坐っているのでした。春に抱き留められて、詩人が秘儀を語り出します。聴く者に永久とわの命を授ける春の歌、不死の精霊たちの歌が天を震わせるその瞬刻ときが明日に迫っている、と。いにしえよりこの地に永らえる神々に憧れ八十に亘る春秋をなみしてした己の戒行もようやく報われようとしているのだと。

'(...), and in the morning at the end of the first hour after dawn, you must come and find me. '
「(…)そして夜が明けたら、黎明後の第一時間の終に此処へ来て己に逢はなければならぬ。」
'Will you be quite young then? '
「其時にはすつかり若くなつてお出になりませうか。」
'I will be as young then as you are, (...) '「己は其時になればお前のやうに若くなつてゐるつもりだ。(…)」

イェイツ『春の心臓』

……永遠の緑の国に憧れる詩人の夢は、こうありました。

Tomorrow, a little before the close of the first hour after dawn, I shall find the moment, and then I will go away to a southern land and build myself a palace of white marble amid orange trees, and gather the brave and the beautiful about me, and enter into the eternal kingdom of my youth.

明日黎明後の第一時間が終る少し前に、己は其瞬間を見出すのだ。それから、己は南の国へ行つて、橙の樹の間に大理石の宮殿を築き、勇士と麗人とに囲まれて、其処にわが永遠なる青春の王国に入らうと思ふ。

<秘密>を設えるために「異花のかをりのやうなにほひを放つ」gave forth a sweet odour as of strange[$${\text{∽}}$$ orange] flowers燈火に火を点じて、枝やらを取りに島を歩きます。森に入ってはしばみhazelから青葉の枝を切り、それから汀へ行って燈心草を束ねて刈り始め、要るだけ刈った時には日が暮れていました。最後の束を部屋に運んで、薔薇と百合とを摘みに行く頃には夜半が近くありました。

It was one of those warm, beautiful nights when everything seems carved of precious stones.
それはすべての物が宝石を刻んだ如くに見える、温な、美しい夜の一つであつた。

Sleuth Wood away to the south [$${\text{∽}}$$ go away to a southern land] looked as though cut out of green beryl, and the waters that mirrored them shone like pale opal[/əʊpl/ $${\text{∽}}$$ white marble/mɑːbl/].
スルウスの森は遠く南に至るまで緑柱石を刻んだ如くに見え、それを映す水は亦青ざめた蛋白石たんぱくせきの如く輝いてゐた。

青ざめた湖水の底にはさかしまに映る〈秘密〉がありました。
「勇士と麗人」the lilies and the rosesを集め、「薔薇は燦めく紅宝石ルビーの如く、百合はさながら真珠の鈍い光を帯びていた」。<秘密>を設え終え、最後にはしばみの青葉の枝で窓と戸を塞ぐ。その夜は、詩人の微睡み見る朦朧hazeとした夢の風景を彷徨うような一夜でした。

At dawn he rose, (...)
黎明に少年は起きて、(…)

薔薇十字、「黄金の夜明け」the Golden Dawnの儀式の場に誘われます。手ずから作り上げた<秘密>、緑光を湛える<秘密>に入ってゆきますenter into the eternal kingdom。青葉の隙間から差す「日の光は環をなしてゆらめ」く魔法陣となって待ち構え、入ったその刹那、二人が向かい合う画となります。

冷たくなった詩人に温とい手で触れると、画は忽ち、王の死と再生の二つの刻を一幅の内に捉える錬金術の寓意画に相を変えます。詩人の腕は力なく垂れ、この時初めて気が付きます、詩人が'you must come and find me. 'と命じたその真意に。あるいは'I will be as young then as you are, (...) 'と告げたことの諧謔に。

'Ah, yes, it were better to have said his prayers and kissed his beads!'
「ああ、さうだ。祈祷をなすつたり、珠数に接吻したりしていらつしやればよかつたのだ。」

雨垂れ(「!」)はかくして詩の勝利をかざり、春分の微熱を帯びた〈秘密〉から生まれた「一羽のつぐみが唄い始め」ました。雨垂れの誤訳は裏切られた詩の悲哀を奏でました。悲喜交々に、しけやし復活の諧謔曲スケルツオscherzo。紙面から溢れそうなその音楽をぱたんと閉じ込め懐に入れて、うちへ帰ったら早速、あなたへ、今日澁谷であなたに遇ったと云う手紙を書こうと思います。

(おわり)

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