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のろいのことば

 「推し」という概念や存在が一般的になった現代に蔓延る呪い。それは「推しは推せるときに推せ」ということば。既に賛否両論あるため私が論じなくても各々の結論は出ているのだろうということも承知の上、私の感じることを書く。

 別に推しは推さなくたっていい。いつ熱が冷めても、戻ってきても何ら問題なく、ただいつまでもそこにいるとは限らない、それだけだ。「いつ居なくなるかわからないから」とそんな思いを抱えながら応援するのって本当に楽しめているだろうか。あくまでもコンテンツの消費者たる私たちは自分たちのその瞬間の楽しさを優先していいと思っている。勿論過度に他者の権利を侵害しない程度に。そうでないと発信する側だって、消費者が何を求めているか分からなくなってしまうのではないかな、と感じる。
 こんな風に私は、自分の興味や楽しさに素直でいることが消費者のあるべき姿だと思っている。この「あるべき」という感覚はある種凝り固まった思考であることには違いないが。

 そもそもファンという言葉自体がこの立ち位置を曖昧にしてしまうことがある。推しとファン、それはステージや画面という隔たりを挟んで向かい合う存在だ。パフォーマンスや発信するものを受け取るというだけの関わり。けれどその距離がどんどん近くなってきている現在、ファンはその応援によって推しとその活動や生活に大きく影響を及ぼし、それを自覚することも少なくない。切り抜きがきっかけでバズる配信者、ファンの投票で活躍の場が広がるアイドル、そういう風になってくるとファンはなんだか「推しと同じ方向を向いている」と感じてしまうのだと思う。この一体感はいつの間にか一定のラインを通り過ぎて義務感となる場合がある。私たちが味方でいなければ、応援してあげなきゃ、その思いの先にあるのは疲弊と破滅なんじゃないかと私は不安に思ってしまうのだ。

 とはいえ、通い詰めた現場から離れたり、長年見つめ続けたものから離れるのが難しいことも理解が出来る。誰だって情がわく。出会ったときから現在にかけての積み重ねが推しの像を形作っているのだから、簡単に離れることは難しいだろう。そうやって執着することは結構だ。大切なのはそれを他者に求めないこと、そして自分に強く課さないことだろう。推しは推せるときに「推せ」この命令形が言葉自体に力強い意味を与えているように聞こえるのは気のせいではないはずだ。
 冷静にみて「ずっと好きです」の「ずっと」は多くの場合実現しない。だけどその人は今その言葉を使えるくらい大きな好きをかかえていることは事実なのだ。万が一推しが表舞台から去ったとして、その瞬間に抱いた思いが嘘になるわけではない。コンテンツに飽きて去ったからと言って、裏切ることにもならない。だから推しは推したい時に推してほしい

 だからたとえ推しから離れている間にコンテンツが終わってしまったことに後悔を抱いても、それは後の教訓になるようなものではないと思っている。最後まで夢中でいられなかったのは、誰のせいでも、何かのせいでもない。
 短くてインパクトのある言葉は力を持つが、そればかりを振りかざしても悲しい思いをする人を増やすような気がしてならない。ずっと誰かを推してきて残ったのは、好きなものを通して幸せでいたいというシンプルな感情なのだ。

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