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友よ、noteを始めてくれ

 私はTwitterの自分のログを遡るのが好きだ。だけど友人は逆に、自分の文章が残っていることが我慢ならなくなりツイ消しを頻繁にするらしい。
 これは自分の文章が自分にとって好きか嫌いかというよりは、過去の自分と今の自分の距離感の問題なのかもしれないなあと話を聞いて思った。

 今の自分から見て、過去の自分の文章そのものや内容の至らなさが恥ずかしいという気持ちが友人を居たたまれなくする要因のようだ。場合によってはアカウントを消したいほどだという。
 私はと言えば、過去は過去だな~と他人事のように思うことが多い。今とは考えが違っていても、若さゆえに暴走していても、それはそれで当時は一生懸命だったんだなあと楽しく見れる。誰もが間違うことがあるように、私もまた間違うし、SNSにも訂正の手段が無いことはない。引用や追記でいくらでも過去の自分にバツを突き付けることはできる。ここに投稿してある記事もまた、追記や引用で訂正する日が来るかもしれない。

 さらには、評価されたいという気持ちにもだいぶ差があった。
 友人は折角書いたのだから見られたい気持ちが出てきてしまって、そのせいで苦しむかもしれない。評価されない苦しみというよりは、評価を欲しがっている自分が嫌になると思う、とのことだった。大いに理解できる。私はこれと同じような気持ちを二次創作をやっていた時に感じていたし、現にそれに疲れて今はもうリタイアしている。
 私にとってnoteは息抜きだ。丁寧に書く時もあるが、こういう自分の考えを述べるだけのものは頑張って書いているつもりがない。推敲も誤字をチェックする程度だ。そういう意味ではほどよく肩の力を抜ける場なのだと思う。小説の類を書くときによっぽど気合がいったのだなと今更気づいた。

 noteを始めて1ヶ月ほどが経ち、使い易さと楽しさから全ての友人に始めて欲しいという願望が芽生え始めている。しかし人によっては慎重にならなければならないなと、この出来事を通じて早めに友人が気づかせてくれたことは幸運だろう。見極めながら周囲で人口を増やしたい。
 ちなみに件の友人からは、記事を頻繁に消してもいいなら始めてやっても良い、と条件付きのOKが出た。言質は取れたのでひとまず満足しているし、この記事を通して軽く圧をかけておくことにする(もちろんこの程度の冗談が通じる関係性であることは前提の上の行為だ)。
 はやくみんな私に脳みその中をのぞかせて欲しい。

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