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素朴な信念


#我慢に代わる私の選択肢

はじめに

「我慢」というテーマはデリケートである。また、こちらのコンテストが開催された背景は、女性の隠れ我慢に関する調査によるという。独身男性である私が良い記事を書けるのか、いよいよ不安になってきた。

しかし、日々の生活において絶対に譲れないこと、すなわち固く信じていることが、結果として私に我慢という選択肢を排除させていることを思い出せる。したがって、信念と我慢は互いに反対のなにかを含んでいるように思う。ここに着目すれば、私でもいくらかの有益な示唆を生み出せるのではないか。

以下では、ちょっとした問いかけから出発して、それから二、三のことを論じて綴じようと思う。抽象的な前置きが続くが、しばしお付き合いいただきたい。

人はなぜ我慢するのか?

問いの設定のやり方は重要である。問いによって、答えは概ね決まってしまうからだ。ひとまず、人はなぜ我慢するのかを問うて考えていくことにしよう。

ひとつの答えとして、環境、特に人との関わり合いが挙げられる。人は環境に合わせて我慢するということの心得を、無意識に持っている。人間関係に着目すれば、世間の目や、誰かの目を、我々は意識せずにはいられないというように。

そしてまた、人はいつまでも同じ場所にとどまることはできない。多かれ少なかれ、変化がある。時間によって何かが分解され、また何かが生成され、これを繰り返す。例えばそれは、出会いと別れや、自身の心の変化などだ。故に人は苦しみを感じる。

別の視点から掘り下げてみよう。端的に言って、我慢が生じるのは葛藤が根底にあるからだ。人間とは矛盾の集合体だと言っても差し支えがないくらい、我々は葛藤に苛まれている。欲求と現実、理想と現実、欲求と欲求、あらゆる対立が幾重にも積み重なる。

さて、我々を取り巻く環境があり、これに紐づいて葛藤があり、そのあとには意思決定が待っているはずだ。意思決定を支える根底は、信念である。

逆からたどろう。信念に基づいた意思決定は、葛藤に一応の解をもたらし、外界(環境)との主体的な関わり合いを導く。おや?その中には、主体的な我慢というものも考えられそうだ。それでは、我々の苦しみの種は受動的な我慢か?それは例えば、親の圧政に耐え忍ぶ子どもの我慢のような。

ここまで、人はなぜ我慢するのかという問いから、存外に多くの気づきを得た。問題は環境、葛藤を経て意思決定に至り、信念から得る主体性と、その反対の受動性を視野に含むこととなった。

私は初め、信念と我慢の関係を直感的に重要視したが、今やそれは議論の中心部へと流れ込んで来ている。信念は主体性を導くが、我慢は主体性からも受動性からも導かれる。また、受動性はより多く苦しみを生むと仮定して良さそうだ。

以上の大味な描像から、私が次の問題に早々に移ることを許して欲しい。あまり細かいことに突っ込んでしまうと、それは形而上の議論になってしまいかねない。

問題は主体性と受動性のパラダイムが中心となった。主体性の側にある信念に注目しよう。

信念とは何か。また、私の信念にはどんなものがあるのか。以下ではこれを考えていこう。

信念について

我々は一体、どんなものを信じているのだろう。結論から言えば、これは二種類に大別できる。合理的なものと、非合理的なものだ。つまり、現実の問題解決に繋がりそうなものと、そうでないものだ。

我々の日常生活には、科学の恩恵を受け、合理性の塊のような利器が溢れている。しかし、人間関係に着目すれば、途端に科学は合理性を失う。人の心というものは、実証主義の学問としての科学からしてみると、あまりにも複雑すぎるのだ。現実の色々を加味した上での合理性というものは、一筋縄ではいかない。

他方、宗教のような、一見して非合理に思えるものは、ある合理性を兼ね備えている。その合理性とは、ひとえに我々の意思決定に関するものである。どうしていいか分からず、現実と向き合うこともままならないとき、行動を起こすための最後の原動力は、非合理的な信念である。私の周りにはキリスト教徒の人がいるのだが、彼らを見ていてもそう思う。強く生きる意思を感じる。

こうなると、合理・非合理という区別は、割に繊細なものだとわかる。信念というものにも、かくの如き性質があると思われる。だから、先ほどは言及しなかったが、主体的な行動の先に実は大きな過誤が待っているということも、考えられるのである。つまり、その選択が真に合理的であったのかは、後になってわかったりする。

信念については、これくらいにしておこう。いずれにせよ、信念を重視する私の立場は変わらない。主体性の含むいくらかの危うさという難点を確認した上でもだ。なぜなら経験上、我々は受動性より主体性を求める方が、幸福に近づくことを知っているからだ。

考えてもみて欲しい。人生において苦しみを感じるとき、そのときの態度は受動的ではなかったか。否応なく、何かの力に束縛されているかのように。その何かとは、具体的なあの人この人とか、所属している組織だったり、逆に全く曖昧な世間の目など、とにかく色々だ。

したがって、受動性に対し主体性はより多くの幸を生むと仮定しておきたい。こう信ずることが、ある種の非合理を含むとしても。

それでは本題に入ろう。我慢に代わる私の選択肢...を書き換えて、我慢に代わる私の信念

信念1:相互理解

苦しみは他者との関係に依るところが大きい。ならば、どんな信念が良き共同体へと向かわせるのか。それは、相互理解こそが、理想の共同体へ近づく鍵だという信念である。

これはなにも、誰とでも仲良くしようという話ではない。そうではなくて、あくまで理想をこのよう設定しているだけだ。

我々は外界に跳ね返され、自分を見つめ直しながら生きている。その中で意思決定を繰り返し、自己を確立する。そのうちに、他者の人となりに興味を持ち、理解したいという思いが共同体を形づくる。

こう考えるなら、共同体の根底は相互理解と言える。かつその手段は、対話である。対話なくして良き共同体はあり得ないと、私は信じている

この実践は、苦しいときも当然ある。わかり合うとは難しいものだ。自他の人格と向き合うとき、形容しがたい程の怖さを感じる事がある。それでも、少しでも相互理解の可能性があるなら、とにかく対話をするのだ。冷静に、謙虚に、人格を重んじて。

いや、もはや誰も信用出来ないという場合でも、自分が大切にしたい人とくらいは、腰を据えて話すことがとにかく大事だ。詮索でも、論争でも、むろん沈黙でもなく、対話という選択肢を選ぶのだ。

これを書いていて、ふと思い出したことがある。あれは高校生のときだったろうか。予備校に通っていたとき、ある数学の教師が、仕事の愚痴を漏らしていた。いわく、アルバイトに雇った女子大生が、仕事によく穴を開けるというのだ。理由は生理痛。

その教師は男性であったから、正直、面と向かって追及することは気が引けると白状なすっていた。その分、愚痴もややキツめの口調だった。当時のその女子大生も、ズル休みが含まれることが予想されるが、まあ真相は闇の中だ。

いずれにせよ、彼らの「我慢」は、なかなかに煩わしく、苦しいものだったに違いない。これは受動性による苦しみだ。もし、腰を据えて話す機会がどこかにあったなら、結果は大きく違っていたかも知れない。詮索でも論争でもなく、対話をしていたなら。

このような事例は、意外と多いのではないだろうか。相手が家族の場合でも、誰しもが厄介な経験をしているだろう。関係修復を目指しても、一年、二年、あるいはそれ以上時間がかかることもある。

この難しさのなかにあっても私は、人を理解出来ているという傲慢を自分で諌めながら、未だ実現せずも実現に向かう道を歩みたい。すなわち、不断の実践の道である。良き共同体は、不断の理解の積み重ねが根底にある。そう信じている

信念2:目的の上下関係

目的には上下関係がある。個人にとって一番上位に位置するものは、幸福である。このような常識的な考え方も、突き詰めれば直感に依ることになる。つまり、素朴な信念である。

昨今流行りのSDGsも、人間の幸福のためのものである。環境のためではない。このような優先順位は明確にされるべきだ。

ここで言いたいのは、目的を見失ってはいけないということ。日常では例えば、議論とか、誰かへの助言などにおいて、目的を見失うことが非常に多いだろう。

議論。なんのために議論をしていたのだったか。そもそもの議題は?おや、彼はなぜ私に食って掛かっているのだろう。

...冷静になってみれば、いつの間にか議論は、現実vs人ではなく、人vs人になっていることが多い。これは、感情の昂ぶりによるものだろう。我々は、冷静になるための"仕掛け"を考え出し、本来の問題解決に向かう努力をする必要がある。闘争は万物の父ではない

助言。ああ、なぜ彼は私の助言を聞かないのだろう。自分の机に帰ってきてみれば、上司が待っていて小言を言い始める。ああ、なんて的外れな言葉を吐き出すんだこの人は。

...はたと気づく。私は果たして、本来の目的に適った行動をとっていたのだろうか。相手のための助言を出来ていただろうか。助言というものが機能するためには、相手の情報を対話によって得ることが肝要である。手持ちの材料が少ないとき、有益な助言ができるということは断じてない。自身の持つ材料以上のことを、結論づけてはいけないのだ。

ちょっと付け加えておこう。上記のような困難でも、相互理解という要素は関わってくる。良き共同体というものは、我々にとってより上位の目標のはずだし、かつ対話無くして良き共同体はあり得ないのだ。

まとめ

信念は意思決定を支え、葛藤をひとまず解決する。そうして、外界と主体的な関わり合いを持つ。他方、支えなき意思決定は、もはや意思決定ではなく受動である。この受動性がより多くの苦しみをもたらす。今まで問題にしていた「我慢」とは、受動的な我慢のことである。

主体的に行動するには、信念の支えが要る。信念は我々の経験や切望に基づき、合理・非合理の区分を有する。この区分は繊細である。最後の最後に意思決定の原動力になるのは、いくらか非合理的な信念、言い換えれば、素朴な信念である。

さっき、キリスト教の話題が少し出たから、これをもう少し話しておく。母から聞くところによると、キリスト教では、神との関係において行動せよという考え方があるようだ(ことカルヴァン派においてそうだったと思う)。これはどういう事か。話は非常にシンプルで、ひとえに目的を見失うなということだ。神とは善なる神であり、最も善いやり方で愛を実現する存在だ。神を目的にすれば、いくら神の視座に立つことは不可能だとは言え、その理想に向かうことはできる。

これは、他者の無責任な言葉に従うのではなく、己が責任において意思決定をすることだとも言える(理想とは何かを自分の頭で考える必要がある!)。神が目的であるとは、そういう意味も含んでいる。

もうひとつ小話。私は趣味で曲を細々と作っているのだが、芸術というものに不寛容な人間もやはり一定数いる。はあ、芸術において利益とか効率とか、どうでもいいのに。私には私の欲しい音がある。それだけだ。理想を追い求め、そのときどきで出来上がったもの一つ一つが理想の顕現なのだ。それ以外に理由がいるか?この素朴な信念以外に?このように思う。

最後に。ここまで読んでくれた人のなかには、私の抽象論に辟易している方も少なからずいらっしゃるだろう。この点は申し訳ない。ただ、これは私のスタイルなのだ。はじめに概念の道具箱を用意して、思索する。抽象にとどまっていた概念群は、現実の物事と結びついて躍動する。思索と、現実を観察することの深さによって、結論の有用性も決まる。このように考えている。

それと、私は数々の事柄について、一定の曖昧さを残している。現実とは常に複雑であり、厳密な議論というものは無益に終わることが多いからだ。この曖昧さに切り込むことは、読者諸氏の日常を材料としなければ出来ないと思う。これについては現状、私が立ち入ることはできない。

バイバイ

さて、風呂敷を広げたにも関わらず、後半のしりすぼみ感が否めないがとにかく!兎にも角にも私は、より多くの方々の幸福を願っている。気概と信念のもとに、要らぬ我慢を跳ね飛ばして、良き日々を過ごせることを祈っている。

われらにスローライフのあらんことを!
それではまた。


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