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[おのごろ神社+上立神岩+伊弉諾神宮+岩上神社+大酒神社+木嶋坐天照御魂神社+大秦景教流行中国碑] 導かれた先に掴むもの

毎朝の写経に取り組み始めて早、1年。
「祝詞を覚えたい!」と一念発起したことがきっかけで、般若心経やカタカムナをはじめ、直感的に覚えたいと思う言霊を集めては暗唱できるよう、毎朝反復写経をしています。

すると、とある土曜日の朝
「天皇の諡号を覚えたらどうかな・・・?」と、どこからともなく沸き立つ右脳の直感に、

「覚えてもどんな価値があるのかな・・・?」と、左脳な問答を繰り返していくと、

翌日曜日の朝にいたっては
「覚えた暁には必ず面白いものをつかむ」と、耐え難い欲望と信念に心が動かされ、126代分の漢風諡号とその謂れを必死に覚えることにしました。

「〇〇天皇の御代」や「△△天皇の勅願」といったその社寺の歴史の中に天皇の漢風諡号が登場してくることがあります。元来、天皇は天津神の後裔であることより様々な神様と強いつながりをもっており、例えば、応神天皇と八幡神や神功皇后と住吉三神のように、場合によっては天皇が一柱として合祀されていることもあります。

そういった意味においては、高次元にいらっしゃる神様やハイヤーセルフと私たちは「縁」というとても強いエネルギーで常につながっています。この縁のエネルギーは強くなればなるほど、その神様やその土地から私たちへの引き寄せが起こりはじめます。私の場合、縁のエネルギーを感じ始めると、居ても立ってもいられないようなワクワク感となり、気が付くと、是が非でもその神様や土地へ向かっていたりするため、縁というよりかはむしろ、高次元の存在と私の間にある「絆」が深くなり、それがお互いに引き付けあう強い引き寄せのエネルギーとなっているようです。

更に、その絆や引き寄せのエネルギーの意図を理解するために、この天皇の漢風諡号が一つの道しるべとなってきました。訪れる場所や寺社仏閣と天皇諡号の関係性から、その時代に起こったこと、その天皇或いは、その天皇の周辺で起こったことが、まさに今を生きる私に起こっている・起こり始めていることがわかりました。つまり、過去の出来事が時空を超えて、今の私の生き方と同期しているということです。例えば、大海人皇子が起こした壬申の乱という出来事がそのまま今の私に起こるのではなく、その出来事の趣旨・志向が今の私の人生に影響を与えているということです。

今回は日本という列島を創造された神々や日本の発展に貢献された神人をご紹介したいと思います。


おのころ神社(自凝神社)― 兵庫県南あわじ市沼島

天津神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)が天の沼矛(あめのぬぼこ)を使って「こおろこおろ」と大海原をかきまぜた際に、その沼矛の先から滴り落ちたしずくが固まってできたのが日本で一番最初にできた土地、自凝島(おのころじま)と言われており、自凝島は自(おの)ずから凝り固まってできた島という意味を持つ。

伊弉諾命と伊弉冉命
おのころ山頂に鎮座する自凝神社
まるで天津の神々が住まう高天原へと続くような参道

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獣道を抜けていくと、天にものぼるような急な階段が目前に現れ、登りきったところがおのころ山頂です。人っ子一人いない自凝神社は、少し寂しいような、わびしいような雰囲気を漂わせながらひっそりと佇んでいます。

境内の右に見える伊弉諾命と伊弉冉命の銅像に近づこうと歩き始めた瞬間、まさに伊邪那岐と伊邪那美のようなご夫婦がうつむいて、一生懸命に何かをされている姿が現れました。辺りが静まりかえっている中での唐突な出会いに驚きましたが、よく見てみると、女性が箒をもって掃いており、男性がゴミ取りトングでゴミを拾っていました。

伊弉諾命と伊弉冉命

「おはようございます。今日、初めて神社に来ました。今日はお掃除ですか?」

「この辺に住んでいて、週に何度か、この山に登ってきてボランティアで掃除をしています、
ここには沼島出身の戦没者が祀られているので特にきれいにしています、

岩に行ってみましたか?」

「はい、まず最初に行ってきました。道中に石塁のような跡があったりして、興味津々に歩きました。手前の坂道が結構私にはつらかったです。ちなみにこちらの裏道のような道の奥へも行ったほうが良いですか。」

「こっちは島の周辺をまわるだけだから・・・」

と会話が続く中で、「まるでこのお二人は伊邪那岐と伊邪那美のようで、一番最初に造った土地である「おのごろ」を、常に気にかけていて、こうやって時間をつくっては掃除をしているだろうな・・・」と心があたたかくなりました。

一期一会の出会いは本当にある起こるもので、このご縁に感謝しました。


上立神岩(かみたてがみいわ)ー 兵庫県南あわじ市沼島

伊邪那岐と伊邪那美が天の御柱(あめのみはしら)という巨大な柱の周囲をまわり、夫婦の契りを結んだとされる、その天の御柱が上立神岩である。この岩からのびる光の柱は天まで続くと言われている。

上立神岩

上立神岩の中央にはハート型のくぼみがあり、恋愛成就の願掛け岩としても知られている。

上立神岩中央に見えるハート型のくぼみ

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船着き場から上立神岩までは片道徒歩 約20-30分程度ですが、途中の坂道を超えると、目の前には大海が広がります。

スロープを降りていくと上立神岩が姿を現してきます。

ある意味、この岩が日本の要石であり、日本列島の全体を強く見守っています。

神様が造ったものには一切の無駄がありません。そして私たち一人ひとりもその唯一無二の創造物の一つとして、命を大切に、今という瞬間を謳歌したいと再認識させらる光景です。

東京大神宮 縁むすび絵馬
伊邪那岐が天の御柱の左から回り、伊邪那美が右側から周り、出会った場所で結婚する

伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)ー 兵庫県淡路市多賀

ご祭神には伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っており、この二柱が夫婦の契りを結び、国生みの儀式を行い、最初に誕生した土地が淡路島である。その後、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順番で国生みをされ、今の日本列島が出来上がったとされている。更に、火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産み落とした際、伊邪那美がやけどを負って亡くなる一方、伊邪那岐は御子神である天照大神、月読命、須佐之男命といった神々を産み落としていく。

夫婦大楠の傍らには岩楠神社(いわくすじんじゃ)が祀られており、伊弉諾尊と伊弉冉尊と共に、一番最初に生まれた神である「蛭子(ひるこ)」が祀られている。蛭子神は体が不自由だったことより、生まれて即、亡くなってしまい、その遺体は海に流された。その後、蛭子は七福神の恵比寿神となり、右手に釣竿を持ち、左脇に鯛を抱えた漁業や商売の神として崇められるようになる。

夫婦大楠と岩楠神社

「ひのわかみやと陽の道しるべ」とよばれる伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行ルートを示した石碑があり、伊弉諾神宮を中心に東は伊勢皇大神宮(内宮)から飛鳥 藤原京、西は対馬国一宮 海神神社が同緯度に並ぶ。また夏至には信濃国一宮 諏訪大社(すわたいしゃ)から太陽が昇り、伊弉諾神宮を通過して出雲国一宮 出雲大社(いづもおおやしろ)と日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)へ日が沈み、冬至には那智大滝や熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)から高千穂神社(たかちほじんじゃ)や天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)に日没する。

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図
ひのわかみやと陽の道しるべ

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伊勢神宮と伊弉諾神宮の間に日本初の都城である藤原京が位置することに魅了されます。

皇大神宮と伊弉諾神宮との関係性は天照大神の父が伊邪那岐であることからその絆が深くあることには間違いなく、他方、藤原京についてはその建設者が持統天皇であり、更には持統天皇の御代に記紀神話がまとめられ、天皇家は天照大神の子孫と認識されました。従って、皇大神宮と伊弉諾神宮と藤原京が東西につながるエネルギーは強く、また天香具山を通すことで結界が張られるため、絆が更に強化されています。

藤原京は天香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)といった大和三山に囲まれた神の神域であり、結界に守られている土地です。その中でも特に天香具山は古代人が崇拝した神奈備であり、決戦の時には必ず、その霊力にあやかろうとした豪族・大王・天皇が訪れた場所でもあります。

また伊弉諾神宮と諏訪大社の夏至ライン上には多賀大社があるようで、「多賀は多賀でもお多賀でござる」「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」の所以かなと、ほくそ笑みました。


岩上神社(いわがみじんじゃ)ー 兵庫県淡路市

布都御霊大神(ふつのみたまのおおかみ)をご祭神に祀り、神剣 韴霊(ふつのみたま)の御霊威をもつ布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう)の分霊を賜ったのが始まりとされる。

ご神体は神籠岩(ひもろぎいわ)という神が降臨する依り代があり、「ひもろぎのお岩さま」と称される。

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御岩神社のゴトビキ磐座が「動」とするなら、神籠岩の磐座は「静」です。とても落ち着いた面持ちで私たちを迎え入れてくれます。磐座へ入る前にはお清めの塩が置いてあり、この神籬を聖域として大切に守り続ける守主の心のあたたかさを感じます。

磐座は地球と宇宙とのエネルギー交信のアンテナですが、まさにこちらの磐座も木々が纏わりつくほどの強いエネルギーを蓄積しているようです。私も同じように纏わりつきたいですが、結界が張られているため、少し距離を離れて輪に混ぜてもらうことになりました。

後ろを振り返るとそこには林が広がっており、木々たちが「こっち、こっち」と導いています。そんな時は導かれるがままに輪の中に入ってみることです。

「こっち、こっち」

不思議と自分が木と同化してしまい、そしてその自然の中にある香りや光を吸収することで、自分の体と心がその木々の輪に入ってしまいます。そんな時、ふと思いつく風景や思い出す過去の記憶があれば覚えておいてください。それは時空を超えて、今を生きる私たちに届いている大切なメッセージです。



おまけ

大酒神社(おおさけじんじゃ)ー 京都府京都市右京区太秦

京都一帯を開発した渡来人 秦氏が祖神とする秦の始皇帝を祀ったことが創建とされており、秦氏の祖である秦酒公(はたのさけきみ)も合祀されている。土木技術や養蚕・機織等、高度な技術力を備えていたため、雄略天皇の御代、織物を山のように積んだことを天皇が喜び、「禹都万佐(うづまさ)」の号を賜ったとされ、寺社のある太秦(うずまさ)の地名もこれに由来する。

始皇帝の子孫である功満王(こうまんおう)が仲哀天皇の御代に来日後、その子である融通王(弓月君:ゆづきのきみ)が応神天皇の御代に127県の百姓を率いて帰化する。更に、仁徳天皇の御代、天皇に献上する織物が肌触りが軟らかく暖かかったので「肌膚(はだ)」から「波多(はた)」の姓を賜ったとされる。ちなみに仲哀が14代目天皇、仁徳が15代目、雄略が21代目となることより、天皇家との関係性が深い氏族と言える。特に、仏教色に染まりすぎた大和国 平城京(奈良県)を離れて、山背国 長岡京(京都府)、更には平安京へ遷都を行った桓武天皇と秦氏の関係性は強く、秦氏の本拠地であった嵯峨野や桂川一帯を新都建設のために寄付したことも有名である。

大酒神社 本殿
8角を持つ鳥居

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秦一族と言えば渡来人として古代日本の建国に偉大なる力を発揮した軍団ですが、なぜかその姿が日本の歴史の表舞台に立つことはなく、そしてその出自はイスラエルの失われた十支族ではないかとも言われています。

飛鳥時代には秦河勝(はたかわたつ)が聖徳太子の右腕となり太子信仰を広めていったことをはじめ、平安時代には造営長官 藤原種継の義父が秦氏であったことより桓武天皇の勅願である平安新都の設営へ大きく寄与したこと、更には八幡神につぐ祠の多さで知られる稲荷信仰の本家本元である伏見稲荷大社の創祀に秦大津父(はたおおつち)と秦伊侶具(はたいろぐ)が関与していたこと等、秦一族の人脈・地脈・政脈は少なくとも畿内全域に張り巡らされていたことは確かです。

また、太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)も別称 蚕の社と言われるように秦氏にゆかりのある神社とされ、その境内には三柱鳥居というキリスト教の三位一体(父なる神、神の子イエス・キリスト、そして精霊)を表わすような3本足の石鳥居があります。三柱鳥居については諸説がありますが、当時、中国に広まっていた景教(キリスト教のネストリウス派)を秦氏と共に渡来した十支族の伝道師たちが日本に広めた証とも言われています。

別称 蚕の社(かいこのやしろ)
木嶋坐天照御魂神社 三柱鳥居
木嶋坐天照御魂神社 三柱鳥居
木嶋坐天照御魂神社 三柱鳥居

キリスト教のネストリウス派はローマ領内での布教を禁止されたため、東方へ回路を開いた結果、唐の都 長安で布教されていたことが当時の景教寺院である大秦寺に建てられていた大秦景教流行中国碑(石碑は西安の崇聖寺で発見された)の発見でわかったようです。

三位一体を表わす三柱鳥居をはじめ、秦氏の本拠地である京都太秦、そして中国の唐にあった景教寺院の太秦寺等々、秦氏は日本の建国だけではなく、文明開化の黒幕といっても過言ではありません。ちなみに伊勢神宮にもこの失われた十支族が関与しているといった日ユ同祖論があり、シルクロードの最果てあった日本へ、様々な夢や希望を抱いて渡来してきた古代人たちが、今の日本の礎を作ったのかと思うと、そんな場所で生まれ育ったことが幸せです。

和歌山県高野山 奥の院にある大秦景教流行中国碑 再現版石碑
和歌山県高野山 奥の院にある大秦景教流行中国碑 再現版石碑



私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。

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