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生活を愛せるようになるまで。

生活を愛せるようになるまで、という題なのだが、生活には様々な曖昧さがあって、意味や形や、状況やニュアンス、天気や、、しまいには機嫌によって、どんな状況かによって曖昧さが生まれて愛の形が変わっていく。

僕は友人Aと文通をしており、愛ってなんでしょうか、と考え合い、意見を交わした。しばらく悩んだけど、答えはなかった。「愛はそれぞれの形」と答えてしまうには簡単で、でも、そんな簡単なはずもなく。愛といっても「何に対しての」によりますし。

僕は曖昧なのが嫌いである。極力どっちかにしてほしいとさえ思うけれど、不毛なのだ、そんな考えは。だって疲れるし。途中で変わるし。

生活は連続している。最初に考えついたことが生活を重ねて経験となり、実はちょっとだけ違かった、となったりして変わったりする。それが「曖昧」となる。最初の答えは間違えではないのだ。全くまどろっこしいったらなんの。まったく。

昔の僕であればその過程さえ鳥肌が立つくらい嫌だった。ちゃんと決めろ!白か!黒か!それは!合ってるのか!違うのか!絞れ!!ひとつに!なんて思っていた。経験もないので、不安だったのだろう。不安が苛立ちになっていたんだろうと思う。

でも、年月を経て知識が増え経験となり人と会い何度も考え、考え直すことが愛なのではないかとも思える歳になってきた。柔軟になってきて良かったと思う。まだ柔らかくないところがあるが、それはもう性格なのだろう、また歳を重ねてほぐしていくのだろうか。楽しみだ。


生活を愛していくとは、僕の定義でいくと「考える」こと。体調の悪い日もあるだろうし、恋人に振られて意気消沈の日もあるだろう。けれども僕は考えることをやめられないし、考えることが好きなのだと思う。

以降、ずっと考えて暮らしていくのだろう。悪くない。生活を愛していく。
爺さん婆さんになって、愛せていたかどうかこたつの中でみかんでも食べながらきっとまた考えるのだ。

親愛なる、僕へ、文でも書くのだろうか。

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