はっち

生活と読書と。

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最近の記事

毎日をいきる。今日を生きる

華やかさをもって生きる 違う 明日を生きる 違う 人を探して生きる 違う 金を求めて生きる 違う 今日を生きる 今日だけを生きる 今日だけ生きたら、あしたがくる それを今日にしてまたいきる けんめいにまえをみる 選んだ道に間違いはないから 足踏みをしたって無駄ではないから 期限を決めても前を見て また今日を生きる。 今日を愛する 無駄ではないから。

    • 今日は。

      今日はずっと泣いてしまう、ずっとずっと涙が止まらない。 被災していないのに涙が止まらない。ニュースが流れる。黒い波が流れる。 旧Twitterのポストを見て泣き、ニュースを見て泣き、友達の言葉で泣き、ずっとずっと泣いている。 脱水で、と鼻汁でグチャグチャになり、頭痛になったが涙を止めることは出来なかった。 様々な色が流れる。式典や黙祷をしても失った人を戻すことは出来ない。できないが祈らずにはいられない。 友達が言った。「黙祷の時のあの音が嫌い。親しい友達も、知り合いも親戚

      • って、思っちゃったんだよね、

        おはよう。諸君。 題目にもある通り、[って思っちゃったんだよね、]について考えてみた。 考えてみた、ってのは再三記事にしている。もう口癖なので許してくれ。 .....って、思っちゃったんだよねは、[と、思いました。(あるいは、思っています]とはまた区別されるものと思っていて、絶望と紙一重なのかなと思う。 思ってしまった、というのは思いたくもないのに思わされたに近い。 諦めと、絶望の真ん中のような気持ちだとしたらかなり苦痛な状態なのだと思う。 それだけ。記録として書いて

        • 涙の国

          今久しぶりに星の王子さまを読み返している。 子供の頃は、王子さまの言葉や、バラの言葉はよく分からなかったけれど、今になると捉え方も変わってくるものだ。 主人公は不時着した飛行機の修理に当たる時つい夢中になって王子さまのバラのトゲの質問について適当に答えてしまった。そうしたら王子様は泣き出した、と言うところで、涙の国という言葉が出てきた。神妙な気持になりながら読み進めていた。 小さい頃であればこういった一つ一つの言葉も逃してたんたんと読んでいただろうと思う。 日々暮らして

        毎日をいきる。今日を生きる

          生活を愛せるようになるまで。

          生活を愛せるようになるまで、という題なのだが、生活には様々な曖昧さがあって、意味や形や、状況やニュアンス、天気や、、しまいには機嫌によって、どんな状況かによって曖昧さが生まれて愛の形が変わっていく。 僕は友人Aと文通をしており、愛ってなんでしょうか、と考え合い、意見を交わした。しばらく悩んだけど、答えはなかった。「愛はそれぞれの形」と答えてしまうには簡単で、でも、そんな簡単なはずもなく。愛といっても「何に対しての」によりますし。 僕は曖昧なのが嫌いである。極力どっちかにし

          生活を愛せるようになるまで。

          あなたが元気でいること

          昨日、大変な地震がありましたね。身の安全を確保してくださいね。 もしあなたが被災していれば、今日明日と新たな地震が来てしまうかもしれないことが心配です。津波も、心配です。 この言葉だけで具合が悪くなってしまう人がいるでしょうから、あまり強い言葉は使わずにいようと思います。どうか、安全にいてください。 ただしい情報をかき集めてください。 これは伝えておきたい。避難所はいい人ばかりではないようです。盗難や、暴行、性被害が日本でもあるようなのです。できるだけ子供や若い女性はまとま

          あなたが元気でいること

          こころの温度とかいうやつ。

          心の温度が保てなくなる瞬間、という文を見つけ惹きつけられた。 そんな話をしようと思う。 保てなくなる瞬間ってどういう時だろうと考えてみたのだ。そもそも、温度があるのか?とか思ったりした。 僕はチャンネルを合わせるようにして、話をする。テレビのチャンネルを合わせるみたいに。 実にさまざまな人間がいたものだ。 あなたはどうだろうか。あなたに子供やペットがいたとしたらとてもとてもあったかくして、常に冷めたくならないようにして話すのだろうか。それは、自分で操作できるものなのか?ぜ

          こころの温度とかいうやつ。

          知らないという幸せ、知るという幸せ

          知識を蓄えておくということは博識になるためにとても重要であり、貴重で高価で、とても「良いもの」であると思う。 しかし、現代はSNSの発達により知らなくていい情報まで入ってくる。 え、それ報道していいやつ?てか、あの事件の犯人はこの刑で良いわけ?(疑問が加速しイライラ)マスコミは何してるの?(ニュース見てイライラ)いやいや、これは仕事しなさすぎでしょ(イライラ)この人喧嘩売ってんな(イライラ)等々。 かなり振り回されている。そしてさまざまな情報に踊らされた挙句、「知らなきゃ良

          知らないという幸せ、知るという幸せ

          実は病むということは。

          病む、ということはさまざまなことに気を配り、どうみられていたか、振る舞いが人を不快にさせていないかとか、人の気持ちが推測できすぎて病んだり、終いには自分の存在自体が邪悪なものとして考え始めてしまったりなんかしちゃったりして。 実はそれって、考えすぎってことで。 考えすぎだよ、大丈夫だよとか言われちゃったりなんかしたりして。 実は病む人って弱い人ではないと思っている。 むしろ逆なのではないかと思う。強い人。納得がいくまで、物事においてオチがつくまで向き合うことのできる人。感

          実は病むということは。

          仕方ないだろ、人間なんだから。

          人間なんだから、言葉を持ち、感情を持ち伝える。 イルカやヨウムなどは人間の5歳児くらいの知能があると聞くので、感情や簡単な言葉の意味などはわかっている。他の動物にも小学校低学年ほどの知能を持ち合わせている種属はいるだろう。 でも、人間ほど数多の感情を抱き激しい感情としてぶつけ合い、殺し合いをするほど愚かではないように感じる。 思い込みや圧力が人々を壊していったのだ、と祖母に聞いた。 最近悲しくなるニュースが多い。 もう、パンダが自由にころころ動き回りササを食べて順調に育

          仕方ないだろ、人間なんだから。

          魔法のことば

          皆様お疲れ様です。今日は日記にします。 しんどくなって会社を休み、1ヶ月近くになりました。 「考えることがやめられない」という悩みを前職の同僚に話した時魔法のような言葉が返ってきて僕はもうこの上ない幸福感に満たされました。 人の言葉に裏がある、だとか本当は敵だったらどうしようとか、探られている感がものすごく感じられる状態で、嫌悪感を感じてしまったりとか巡り巡ってどうにもならなくなって、そのことを元同僚にお話ししました。 するとこんなことばが返ってきました。 同じ人生の

          魔法のことば

          人の形をした何かに見える話。

          僕は前提として、人は嫌いじゃない。好きでもない。 僕は色が見える。視覚的にはっきり見えるわけじゃなくて頭の中で見えている。 一対一であれば人の中の色を見ることができるのに、複数人になってしまうと人の中に潜って見ている色が混色になり、どんどん混ざり合って訳がわかんなくなってしまうのだ。 そしてついには、人の形をした何かを見ながら、人っぽい話し方をする、人みたいな形の変なものと話している気になってくる。大袈裟かと思うだろうが本当なのだ。 僕は人の色を見て話をしている。 話の中

          人の形をした何かに見える話。

          「毎日何してるの」

          今日投げかけられたことばだ。 何もしてない。...わけではないが、訳あって休職中で、やっと朝起きて、やっとご飯をたべ、余裕があれば座る姿勢をとり、リハビリをしている。 余裕がなければ寝続ける。 そんな毎日だ。 僕は以前「頑張れっていうな」と言われたことがある。今ならその言葉の意味がすごくよくわかる。なるほどな、と思った。その日から僕は自らの意思で「頑張れ」という言葉を使わなくなった。他の言葉を使って鼓舞している。 記事を読んでくれた読者から、「文章を書くというより、感

          「毎日何してるの」

          拝啓、自分を大切に出来ないあなたへ、

          皆様お疲れ様です。 今日は「ふたご」について書こうかなと思います。 僕は以前SNS上で出会った、周りからも「もはや双子だよね〜」と囃されるくらい仲のいい友達がいた。ふたご、なので当然同い年だ。 その子は、大学1年生から孤独な毎日を支えてくれ、約8年間の長い年月を共にした。 1分でも時間があれば会う約束をするような、そんな仲だった。タバコの種類も飲むお酒も、食べ物の好き嫌いも好きな場所も好きな匂いも、お互いのことをよく知っていた。 コーヒーはブラックがいいことも、普段はカッ

          拝啓、自分を大切に出来ないあなたへ、

          可哀想ってなんか変じゃない?

          母はよく、ニュースを見ながら、「可哀想ね」と口にする。 「可哀想」子どもの頃からなんだか距離を一つ置いて眺めているような違和感を感じていた。 距離をとって物事を捉えている感覚は、他者(該当の人、もの、動物 あらゆる事象)を遠ざけて、悲哀と冷酷を感じる。また、とある感情も含まれているように思う。 それは「よかった、私(俺じゃなくて、僕じゃなくて)じゃなくて」という感情だ。 だからできるだけ僕は「可哀想」とは口にしないようにしている。 皆さんはどう思われますか?

          可哀想ってなんか変じゃない?

          生きるって選択の連続

          この人とはこの距離感で。 この人といる時は、このキャラで。 特に学生の頃はもはや派閥とでも呼べるような限られたとても狭い範囲で人間関係をなんとか構築しなければならなかった。いや〜あの時は「学校」という中が人生の全てみたいに見えてたから苦しかったなあ〜〜 社会人になって、また違う色が見えてきたのが人間関係だった。距離感が掴めない。これも選択。 行動するにも。 食事をするにも。 トイレに入るにも。 入浴するにも。 友達と遊ぶにも あらゆる全てにおいて選択をする。 暮らしていく

          生きるって選択の連続