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中東和平の仲介役に再登場か―オスロ合意の立役者ノルウェー

 昨年10月7日のイスラム原理主義組織ハマスによる対イスラエル奇襲攻撃を機に始まったパレスチナ・ガザ紛争。イスラエル軍が報復のためにガザ空爆を開始して1カ月経った昨年11月、以下のようなオスロ発のロイター電が配信された。
 —―ノルウェーのアイデ外相は6日、イスラエルとパレスチナの数十年にわたる紛争の政治的解決策を見い出すため、双方の外交チャンネルを復活させる方法を模索している、と明らかにした。地元公共放送NRKに語ったもので、「米欧やアラブ諸国のほか、紛争当事者からも関心が寄せられている」と述べた――
 この記事、日本の新聞の扱いはごく小さなものだったが、筆者にはピンとくるものがあった。ノルウェーは中東紛争の解決に向けて歴史的出来事として知られる1993年のいわゆる「オスロ合意」の仲介役を果たした国である。イスラエルとアラファト率いるPLO(パレスチナ解放機構)が互いを承認し、2国家共存への道筋(和平プロセス)をつけたオスロ合意は数年後には有名無実化。その後は再びテロと対テロ攻撃の応酬となり、和平への道は遠ざかる事態になった。
 オスロ合意がとん挫した主な理由は、ラビン首相暗殺に見られるように、パレスチナとの共存そのものを認めないイスラエル国内の右翼強硬派の台頭とアラファトのリーダーシップ不足、イスラエル殲滅を唱えるハマスなど過激派組織が勢いを増してきたことにある。オスロ合意の5年後にイラン・イスラム革命が起きたことも強く影響した。一言でいうのなら、中東紛争がイスラエル、アラブ間の民族闘争から宗教闘争に変質していったのだ。
 ロイターの記事は、ノルウェーが再びイスラエル、パレスチナ間の仲介に乗り出し、国際社会が望む2国家建設へ向けての意欲を示したものとして注目される。ただ、ノルウェーが仲介に入るとすれば、それは現在の戦闘が停止され、和平の機運が高まってきたときだろう。つまり、ガザの「戦後」をどうするかをイスラエル、パレスチナが話し合うときだ。
 ノルウェー。人口550の北欧の小国。面積もほぼ日本と同じ。1905年にスウェーデン王国から独立し、独自の政策を推し進め、世界有数の福祉国家になった。経済力も北海原油開発を中心に発展を遂げ、現在、国民1人当たりのGNI(国民総所得)は世界1位、同じくGDPは世界5位の堂々たる経済強国である。EU(欧州連合)には加盟していないが、米国との関係維持もあってNATO(北大西洋条約機構)には加入、中立外交を基本としている。
 対中東外交について言えば、原油を中東地域に頼らない有数の原油輸出国ということもあって、イスラエルやアラブ諸国と偏りのない政策を貫ける。一例を挙げる。現在進行中のイスラエル・ハマス紛争で主要欧米諸国および日本は、ハマス戦闘員12人がUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の職員だったとして、UNRWAへの拠出金を一時停止しているが、ノルウェーは唯一、人道上必要だとして拠出を続けている。
 ノルウェー外交の一大成果として世界的評価を受けたのが言うまでもなく、93年9月13日にワシントンで調印されたオスロ合意(正式には暫定自治政府原則の宣言)。ノルウェーはその前年の92年に、イスラエルとアラファト率いるPLO(パレスチナ解放機構)の代表者をオスロに招き、数カ月間複数の秘密協議を主催、仲介に努めた。当時ノルウェーの外相だったヨハン・イェルゲン・ホルスト(1937~94年)は仲介者として名声を高め、ガザ市は彼を称えて市内に子供らの遊び場として「ホルスト公園」をつくった。(この公園が今も残っているかどうか危ぶまれるが。)ホルストはオスロ合意調印後わずか四カ月後に脳卒中で倒れ、まさに劇的な死を遂げた。ちなみにホルストはNATOの現事務総長イエンス・ストルテンブルグの叔父にあたる。
 オスロ合意にはもう1人の立役者がいる。アラファトと個人的なつながりのあったトーレ・リンドロートである。彼はホルストの配下にあった外交官であり、パレスチナ問題の専門家でもある。秘密協議を実質的に取り仕切った人物だ。アラファトはイスラエルのイハツク・ラビン首相(当時)と88年にオスロで直接会っているが、そのお膳立てをしたのがリンドロート。この2人の会合がオスロ合意の前段階とみなされている。
 戦闘休止、人質解放の見通しのつかないガザ紛争だが、近い将来、和平に向けてのイスラエルとパレスチナとの交渉が始まることになれば、仲介役としてふさわしいのはノルウェーをおいてほかにない。ロイター記事に触れての筆者の感想である。

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