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本刈谷貝塚 土偶 22:浮島の宮

岡崎市の小薗神明社(おぞのしんめいしゃ)にはイザナミも祀られていた。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

小薗神明社の拝殿前の賽銭箱にはここの神紋である花菱紋を銅板レリーフにしたものが取り付けらていた。

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これはここに祀られている豊宇氣姫命(トヨウケビメ:神宮外宮の祭神豊受大神の別名)に対応した神紋だが、この神紋は神宮内宮(祭神天照大御神)の神紋でもある。
だから、花菱紋は女神を象徴した神紋と言えるのだが、この花菱紋は出雲大社、厳島神社の神紋のパーツとしても使用されている。
上記、厳島神社(いつくしまじんじゃ)の神紋は出雲大社の神紋である二重亀甲に剣花菱紋を3つ積んだ形で、海人族の奉斎した宗像三女神(むなかたさんじょしん)を表しているが、その内の一柱、イチキシマヒメの名を社名にしたのが厳島神社だ。
厳島神社と出雲大社の神紋の花菱の花弁の間には剣菱が入っている。
この剣菱の剣は宗像三女神の父親スサノオを象徴したものと思われる。
武人であるスサノオにはヤマタノオロチの尾を十拳剣(とつかのつるぎ)で切り落とそうとして草那藝之大刀(くさなぎのたち)を手に入れたとする、剣にまつわる神話が存在する。

小薗神明社の祭神豊宇氣姫命は稲荷神(宇迦之御魂神)と習合し、同一視されるようになったが、小薗神明社社殿の西側には千本鳥居の立ち並んだ稲荷社が祀られていた。
一方、反対側の東側には石造伊勢鳥居と縁石で囲われた参道を持つ連棟社が祀られていた。

12小園神明社境内社連棟社

この連棟社には9社が祀られていたが、その中にイザナミを祀る愛宕社が含まれていた。

さらに御手洗池(みたらしいけ)の痕跡が残されていないか、社地の西側を探索していると、痕跡どころか、池が現存していた。

13小園神明社御手洗池境内社

この池の部分は広場からは地面が低くなっており、拝殿に参拝をしただけでは死角に入っていて、気づかれないこともありそうだった。
小薗神明社『由緒』から想定していたのはもっと大きな池だったのだが、現在のこの池から御供米(おくま)を船に積み海に出たにしてはスケールが小さすぎた。
ただ、水面は伐採した枝が落ちたまま放置され、清浄でなければならない「御手洗池」にはとてもそぐわない池で、『由緒』にある「昔大沼にして」の「沼」そのものの状態だった。
ただし、「浮島の宮」という呼称には状況が合致しており、島には銅板葺素木造の社が祀られていた。
この社の名称に関する情報は現場にもネット上にも見当たらないが、おそらく、小薗神明社の元宮ということなのだろう。
この池が御手洗池なら、西側に玉垣が並んでおり、蛇柳はこの周辺で掘り起こされたことになる。
現在は途切れてしまっているが、大鳥居脇の水路跡はこの池につながっていたものと思われる。
この池の北側40m以内を矢作川水系の安藤川が流れているので、小薗神明社を出て、その堤防上に出てみた。

14安藤川(中島町)

写真の右端の住宅の屋根越しに見える森が小薗神明社の社叢。
安藤川の水面はかなり高く、堤防内の雑草の繁殖が濃く、ナマズの繁殖に適した川らしい。

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安藤川の堤防上は舗装されてなく、モーターサイクルで走るには適さないので、川沿いの複数の道路を辿って、三河湾まで下ってみることにした。

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