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御用地遺跡 土偶 12:アベマキの丘

安城市 御用地遺跡の東側(岡崎市)から流れ出し、南に向かう鹿乗川(かのりがわ)の主に右岸(西岸)には多くの古墳が存在しています。
このページから古墳を紹介していきます。

●後頭部結髪土偶

御用地遺跡の南南東580m以内の住宅街の中に岡崎市に属する大塚公園があり、その公園内の北東の一角に北浦古墳が立ち上がっていた。

1MAP北浦古墳

大塚公園の標高は21mとなっている。

下記写真は大塚公園の南西側の入り口。

1大塚公園

入り口にはステンレス板に「北浦古墳」と焼き込まれた標識があり、この公園の北東の角地に面して複数の古木の伸びている円墳が位置していた。

『みかわこまち』というサイトに
https://mikawa-komachi.jp/history/utouootsuka.html

岡崎市文化財保護審議会委員の山田伸子氏が「北裏古墳は墳形のやや崩れた円墳で、現状は高さ約3m、南北径約20mを測る。」と記している。
現場を観た印象では高さは5m以上はあったと思っていたので、その意外な低さに驚いて、墳丘の裾は明快ではないものの航空写真で南北径を計測してみると、約20mは間違い無さそうだった。
また、写真で墳丘の縦横費を計算してみたり、写真右端の平屋の屋根高を4mくらいと見れば、確かにそれより低いので、「高さ約3m」も間違い無さそうだ。
ただし、この北浦古墳に関する情報は現場にもネット上にも墳丘のサイズしか露出していなかった。
山田伸子氏の情報が最も情報量の多いものだった。

公園内に入り、墳丘の南南東側の麓から墳丘上を見上げると、よく紅葉している樹木(12月中旬)が1本、目についたが、後で葉からアベマキであることが判った。

2北浦古墳噴頂

となると、この古墳を覆っている落葉はアベマキによるものである可能性が高いことになる。

下記写真は西側から墳頂を見上げたもので、こちら側にもアベマキが存在する。
こちら側は日当たりが悪い側なので、地面がウエットになっており、青い雑草も東側より多い。

3北浦古墳噴頂

墳丘の北西側に回ると、北浦古墳を囲った杭が抜け、鎖が切れている。
墳丘の斜面も荒れている。
すると地元の人らしき男性が墳頂から降ってきた。
それで自分も墳頂に登ってみることにした。

4北浦古墳噴頂

墳頂上は雑草も枯葉もほとんど無く、開けており、頂点には円形の窪みがあって、そこにアベマキの葉が溜まっていた。
登れる古墳上には必ず登ってきたが、こうした窪みが墳頂にある場合が時折あって、その場合は埋葬されていた石棺などが掘り出され、土で埋め戻しても、時間が経つと地表が落ちてこのような窪みになっている場合がある。
北浦古墳に関しては出土物の情報が無いので、そうしたものであるのか確認できないが、墳頂のど真ん中にある窪みではある。
紅葉しているのは、いずれもアベマキ のようだ。

墳頂上からの景観で開けているのは公園の開けている南西方向で、こちら側は大塚公園より標高が低くなっている側なので、高さ約3mとは思えない景観となっていた。

5北浦古墳眺望

こちら側にもアベマキが存在している。
森林ボランティア『菊炭友の会wiki』のサイトの「アベマキ」の項にはhttps://kikuzumicoal.wiki.fc2.com/wiki/アベマキ

以下のように説明がある。

アベマキはブナ科コナラ属に属する落葉高木で樹高は20mにもなる。
アベマキはコナラとともに里山を代表する樹木で、火力が強く火持ちの良い良質な薪材になる。
樹皮は分厚いコルク層に覆われ、しいたけのホダ木には不向き。
葉は長楕円形で先端が尖っている。縁には尖った鋸歯(※きょし)がある。裏面は白っぽく絨毛で覆われているのでクヌギの葉と区別できる。
ドングリは大きめでずんぐりで丸くクヌギと区別しづらい。
ドングリは受粉後翌年秋に熟す。                (※山乃辺 注)

6アベマキ

北浦古墳の被葬者は判明していないが、かつて、北浦古墳の南西110m以内に宇頭大塚古墳(うとうおおつかこふん)という古墳時代中期中葉(5世紀)の前方後円墳が存在したといい、その被葬者と関係のある人物である可能性が考えられる。
そして、その古墳があった場所は現在、和志王山(わしおうざん)薬王寺の境内になっているというので、そこに向かった。

薬王寺は国道1号線の北側に面しており、自転車1台停めるスペースの無い、極めて狭い寺院だった。
愛車を路地の奥に止め、徒歩で国道1号線の歩道に戻って、山門に向かった。
歩道沿いには石柱を並べた垣根があり、山門前に「和志王山薬王寺」の寺号標、「三河国 薬王寺刀直〓刀送趾」と刻まれた板碑、「新四国第四番 弘法大師」の石標が並んでいる。

7薬王寺山門

山門をくぐるとコンクリートでたたかれた山道が10 m近く奥(北東)に延びており、5段の石段の上に金属板で葺かれた本堂があるが、本堂の位置する部分が後円部の頂点らしく、石段はその麓のようだ。

8薬王寺本堂

後円部の墳土はそのまま残っているというが、もちろん後円部とは判らない。
前方部は江戸時代初期の東海道(現・国道1号線)開設や、後の住宅建設などでほぼ消滅しているので、視認できる古墳は存在しないといっていいだろう。

後円部上から前方部のあった山門とその前を通っている国道1号線を見下ろしたのが以下の写真だ。

9薬王寺眺望

山門前に掲示された案内パネル『和志王山薬王寺』の宇頭大塚古墳に関する情報を土台に山田伸子氏の情報を加えると、以下のようなことになる。

宇頭大塚古墳の規模は周濠も含めた全長70m、後円部径約30m、前方部の長さ約30m、と推測される前方部を南西に向けた前方後円墳だったという。
和銅年間にこの地に住まわれた豊阿弥長者(ほうあみちょうじゃ)は五十狭城入皇子(いさきいりひこのみこ:別名 気入彦命きいりひこのみこと)の子孫と伝えられています。古墳時代中期にこの地に勢力のあった皇孫の古代豪族の子孫が、奈良時代に和志王山薬王寺を建立されたと考えられます。

山田伸子氏は宇頭大塚古墳を五十狭城入皇子の一族の陵墓ではないかと推測している。
となると、北浦古墳の被葬者も五十狭城入皇子一族の関係者である可能性がありそうだ。
ただ、五十狭城入皇子に関する情報自体が多くはなく、『日本書紀』にある、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子であることと、『先代旧事本紀』「天皇本紀」にある五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする記述くらいだ。

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雑草が北浦古墳のように綺麗に整理されている古墳は珍しい。
古墳の中には表面に石が葺かれた例があります。
ピラミッドも表面を石灰岩や化粧石板で覆ったりした例があります。
古代人も墳陵やモニュメントに雑草が生えるのを嫌ったのだと思われます。


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