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今朝平遺跡 縄文のビーナス 79:雄×雌=豊穣

2022年8月 愛知県豊田市富岡町の蛇口成瀬神社から飯田街道(国道153号線)に戻り、東の稲武町に向かいました。飯田街道を辿って7.5kmほどで、北に急坂を登っていく道のある十字路の明川(あすがわ)交差点に到達しました。明川交差点から大岩山弘法大師への登口のある明川町壱石(いっこく)のT字路までは1.1kmあまり、T字路から分岐道に入って緩やかな坂道を登っていくと570mあまりで明川町南沢の変則の十字路に出ました。南沢十字路を右折すると坂道は急な登りになり、110mほどで、ここまでコンクリート舗装だった道は終わり、大きな瓦礫のあるダートの林道に変わりました。ただ、道幅は通常の3倍くらいの広い林道でした。その理由は後になって、この林道が大岩山神社への参道になっているからだということが解りました。この日はこの山に入ることから、アドベンチャータイプのモーターサイクルを購入して初めて林道に入ることになりました。林道の参道は深い谷に沿ったダートになってから250m以内で右(南)に分岐し、70m以内で森を抜け、開けた場所に出ました。

愛知県豊田市明川町 大岩山神社
豊田市富岡町 大岩山神社/大岩山弘法大師
富岡町 大岩山神社/大岩山弘法大師

開けた場所に出ると、参道は開けている方向に向かうのではなく、参道の東側の土手に沿って南南東に向かっており、開けた場所に出て50m以内に横幅の広い朱ノ鳥居が設置され、その右手前脇には防腐剤で朽葉色に染められ、銅のキャップをはめられて「大岩山神社」と墨書された社号標が設けられていた。

愛知県豊田市明川町 大岩山神社

鳥居と社号標は一般的な神道の雰囲気よりも、密教の雰囲気を感じさせるものだった。
参道の両側には自然の巨石が並べられ、南に広がる広場からは隔離されていた。
鳥居の正面奥15mほどの場所からは、なだらかな登りの石段が南に延び、山に向かっていた。
鳥居前の脇に愛車を駐めて、徒歩で鳥居をくぐり、石段を登って行くと、20mあまりで表参道はヘアピンと言うよりも牙のように折り返していた。
参道を進むと、折り返した表参道は坂道を登りながら上記写真の鳥居の黒い笠木(鳥居上の横木)の左端の少し上の土手に戻ってきており、参道は鳥居を通り越してやや左後方にまで延びていることが判った。

牙を折り返して20mあまり鳥居脇の上に戻ってくる途中、表参道から山の上に向かう階段のある分岐道の角地に西南西を向いた銅板葺切妻造棟入で前面が開け放たれた朱塗りの躯体を持つ覆屋が白いコンクリートの基壇上に設置されていた。

豊田市明川町 大岩山神社 白竜大明神

軒下の通常なら頭貫(かしらぬき)に当たる横木には白色で「白竜大明神」とある。
覆屋内には素木で祭壇が設けられ、瑞垣内の中央に板碑が置かれていた。
この建物も宮大工の製造したものではなく、現代的でシンプルな覆屋だった。

覆屋内の板碑は岡崎御影(花崗岩)で、天部がアーチ状になった板碑で、前面には板碑の輪郭に沿った、やはり天部がアーチ状の凹刻枠内が設けられ、その中に「白竜大明神」ではなく、「白龍大明神」と浮き彫りされているように見える。

豊田市明川町 大岩山神社 境内社白竜大明神 板碑

体験的に白竜は、愛知県では水路の周辺に存在する巨木の中に流れる水脈を意味することが多いと思っているのだが、周囲に水路も巨木も存在しない。

白竜大明神前から、左下の鳥居を見ながら10mも参道を進まないうちに登りだった参道は緩やかな下り道に反転した。
降り始め、鳥居脇を通り過ぎると、20mあまり先の行き止まりに南東のこちらを向いた建物と、その右脇に境内社らしき建造物があった。

明川町 大岩山神社 本殿覆屋/境内社

さっき寄って来た白竜大明神の覆屋と同じく、こちらを向いた建物の屋根は銅板葺、躯体は朱塗りで統一されている。
躯体の朱塗りに合わせて、参道の土手側の柵と手摺も朱塗りになっている。

正面の建物の前に至ると、切妻造妻入のこの建て物の軒下には朱地に白文字で「五穀豊穣の神」と入っている。

明川町 大岩山神社 本殿覆屋

「五穀豊穣の神」は世界各地に見られる食物起源神話(ハイヌウェレ型神話)にむすびつくものだ。
そして、この建物は一般の神社で言えば本殿の役割を担っているのだろう。
この建物も正面は開かれたままだが、銅板葺の向拝屋根の軒下には注連縄が張られ、覆屋内にはテーブルが2基奥と手前に並べられている。

覆屋内奥の棚の上には雄形の奇木と雌形の奇木が磨かれて対にして祀られていた。

明川町 大岩山神社 本殿覆屋 五穀豊穣の神

これが五穀豊穣の神ということなのだろうが、「五穀」はともかく、「豊穣の神」であることは確かだ。

五穀豊穣の神の覆屋右手の参道の方を向けて祀られた銅板葺片流葺で、やはり朱の躯体を持つ境内社は軒下に渡された頭貫に当たる横木に白文字で「山神」とあった。

明川町 大岩山神社 境内社山神社

この山神が最初にここに祀られていた神なのだろう。
正面が開けっ放しになっているのも、ほかの覆屋と共通している。
床には砂利が敷き詰められていた。

その屋内に岡崎御影の石が祀られていた。

明川町 大岩山神社 境内社山神社 石

文字は刻まれていないので「石」だ。
大岩山神社に関する情報は現場にもネット上にもほとんど見当たらない。

参道を戻って石段の下まで降りると、さっきまで登っていた山の裾の南側
に巨石と池があるので、観に行った。

明川町大岩 巨石/池

池には特に生物は見られず、湧き水や水路も見当たらず、ただの水溜のようだ。
ただ、周囲を巨石が囲んでおり、よく見ると石の表面は雑草で覆われている部分が多いが、多くの巨石が積み重なってできている山のようだ。
それがここの字名「大岩」となっており、弘法大師の山号「大岩山」になったのだろう。
「大岩山」は山号であって山名ではないので、地図にはここには山の名称は表記されていない。

さらに山裾の南の方にも巨石が山裾に埋まっているのが見える。

明川町大岩 山裾巨石/大岩山弘法大師の施設

上記写真右端にわずかに見えるは大岩山弘法大師の施設だ。
大岩山弘法大師の施設がどこまで広がっているのか不明なので、愛車に戻って、愛車で大岩山弘法大師の正面と思われる方に回ることにした。

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『葵エンジニアリング』の公式ウェブサイトには明川町に関する情報がありました。飯田街道沿いを流れる阿摺川(あすりがわ)は矢作川(やはぎがわ)の支流であり、明川町には縄文時代の明川山ノ神遺跡、柳坪遺跡が存在するそうです。町名は江戸期には三河国加茂郡明川村。東加茂郡明川村。伊勢神村の大字明川と変遷し、明治39年に入ると賀茂村大字明川。昭和期には足助町大字明川。平成17年からは豊田市明川町となっています。


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