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麻生田町大橋遺跡 土偶A 17:菟上足尼の墳墓か

豊川市御津町(みとちょう)の御津船山古墳と八幡町の船山1号墳はともに、ただ「船山古墳」と呼ばれることがあり、地元の人間でないとネット上の情報がどちらの船山古墳なのか判らない場合があります。八幡町の船山古墳が1号墳と呼ばれるのは、1号墳の墳丘北側に船山2号墳と呼ばれる陪塚と見られる1辺約20mの方墳1基が存在したからですが、残念なことに陪塚は失われています。それはともかく、御津船山古墳から、北々東1.6km以内に位置する船山1号墳に向かいました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP船山1号墳

国道1号線を名古屋方面に向かっていると、右手に高木の茂る小山が見えてきた。

1船山1号墳

それが、船山1号墳だった。
御津船山古墳と同じく前方後円墳だ。
これまで、三河を巡っていて遭遇した最大の古墳は安城市の二子古墳(ふたごこふん/全長68.2m)だった。

本来の船山1号墳の全長は95mとみられ、小生が三河で遭遇した古墳で、最大の古墳となった。
それでも墳墓の大きさよりも、その墳上に茂っている樹木の大きさの印象の方が強かった。
まずは周囲を1周してみて、上記写真の船山1号墳の向こう側に面してセブン・イレブンがあったので、その駐車場に愛車を駐め、上記写真の左端の向こう側から墳上に上がる通路があったので、その通路で墳上まで上がった。
ちなみに上記写真の墳上手前中央右寄りに横線が重なっているように見えるのは幅の広い階段である。
つまり登り口は2ヶ所存在していた。

通路を登りきると、森の中に白っぽい樹皮を持ち、上部にしか枝葉の無い高木が幹を伸ばしていた。

2ブナ

場所は前方部と後円部の接合部分だ。
おそらく、この森で樹高のもっとも高い樹木だと思われるのだが、樹木図鑑からブナではないかと推測した。
『植木ペディア』の「ブナ/ぶな/橅」の項目には以下のようにある。

ブナの幹はまっすぐに伸び、直径は最大で1mを超える。雄大な樹形と白くて滑らかな樹皮から、“山の王様”と称され、盆栽に使われることも多い。

緑の葉の茂る中に1株だけ白い幹を真っ直ぐ天に伸ばし、まさに孤高の王のように見えていた。

東側に位置する後円部に向かうと、後円部の北東の端に力強い側根に幹を支えられたアベマキが生息していた。

3アベマキ

南東側の1号線から見えていた幅の広い階段の上部は以下のようになっていた。

4東眺望

階段の最上部脇にはブロックで基壇のようなものが設けられており、その上に石祠の屋根や五輪塔の部位や石材が置いてあった。

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Google地図を見ると、この森には「船山古墳」と「上宿神社」(うえじゅくじんじゃ)の表記がされているのだが、上宿神社は見当たらない。
廃社になっているようだ。

後円部から階段を1号線側に降りて、前方部に向かって撮影したのが以下の写真だ。

6後円部麓から前方部眺望

船山1号墳は14号線沿いに建っているマンションの裏面に面している。

船山1号墳南東側の後円部の下から撮影したのが下記写真。

7後円部

こちら側の麓には上宿神社にあったものなのか、石祠と三州瓦の小祠の2棟が国道1号線をバックにして祀られていた。

8小祠

2本の長い石材で左右を囲われ、祠の前には赤レンガで拝石が設置されていた。

マンション裏面の前方部の麓に移動して後円部に向かって撮影したのが下記写真だ。

9前方部麓から後円部眺望

周囲から視認しただけでは前方後円墳と確認できない古墳だが、それは樹木が多いためだけではなく、道路拡張などで後円部と前方部の端がともに削られてしまっていることも要因になっている。

再び墳上に上がり、前方部に向かった。
前方部の西の端は道路を通すために切断され失われている。
下記写真は前方部の南西の端から上宿交差点を見下ろしたものだ。

11上宿交差点

前方部の西の端からは音羽富士(おとわふじ)が望めた。

12音羽富士

富士と言っても標高は380mに過ぎない山だ。

船山1号墳に関してはネット情報を総合すると、以下のような情報がある。

規模   墳丘長95m 高さ6.5m
     後円部:直径56m/前方部:幅65m
出土品  円筒埴輪・朝顔形埴輪・埴輪棺(2基)・須恵器・刀子・鉄鏃
築造時期 5世紀後半
被葬者  (一説)菟上足尼(うなかみのすくね:初代穂国造)

墳丘は3段築成で、東三河地方(愛知県東部)では最大規模の古墳。
墳丘表面では円筒埴輪(40基)・葺石が検出されている。墳丘くびれ部では左右両側に造出が認められ、南側造出からは食物供献儀礼遺物が出土しているほか、墳丘周囲には周濠が巡らされていた。
周辺には三河国府跡(曹源寺)、三河国分寺跡、三河国分尼寺跡(三河国分尼寺跡史跡公園)があり、古代の三河の中心地だったことがわかる。

菟上足尼と同一である可能性の高い人物と神が存在する。
一人は菟上王だが、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には以下のようにある。

『古事記』にみえる開化天皇の孫。
大俣王(おおまたのみこ)の子。比売陀(ひめだ)氏の祖。垂仁(すいにん)天皇の皇子で口のきけない本牟智和気王(ほむちわけのみこ)(誉津別命(ほむつわけのみこと)に随行して、兄の曙立王(あけたつのおう)と出雲大神の参拝にいく。帰途、皇子が口をきいたので、よろこんだ天皇の命令で出雲にひきかえし、神殿をつくったという。

一柱は兎上命で、『常陸国風土記』には以下のようにある。

此(これ)より、北に、 薩都里(さつのさと)あり。 古(いにしへ)に国栖(くず)有りき。名をば 土雲(つちくも)と曰(い)ふ。 爰(ここ)に、 兎上命、 兵(いくさ)を発(おこ)して 誅(つみな)い 滅(ほろぼ)しき。時に、 能(よ)く殺して、「福(さち)なるかも」と言へり。 因(よ)りて佐都(さつ)と名づく。

これはヤマト王権による東国平定談であり、菟上足尼は出雲や常陸に移動していることや、本牟智和気王(垂仁天皇の御子)との関係からしても、菟上足尼が朝廷から派遣されて三河にやってきて、生涯を終えた人物であることを示唆している。

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現在は船山1号墳の周濠は認められませんでした。船山1号墳の被葬者説のある菟上足尼は『先代旧事本紀』「巻十国造本紀 穂国造条」に、雄略朝に穂国造(ほのくにのみやつこ)に任命された人物という記述があるようです。
それにしても、三河随一の荘厳な古墳が破壊されてしまっているのは、本当にもったいない。


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