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今朝平遺跡 縄文のビーナス 50:ピラミッドにぶつかる足助川

愛知県豊田市足助町(あすけちょう)を流れる足助川に架かった真弓橋の左岸側から視覚に入っている赤鳥居に向かうために、愛車を真弓橋の袂に置いたまま北に向かって歩きました。

愛知県豊田市 足助川
足助川 足助町 お釜稲荷〜足助橋
足助川 足助町 お釜稲荷〜足助町 庚申堂

中馬街道(ちゅうまかいどう)の交差点まで戻ると、そのすぐ北側にそびえる赤鳥居は漆黒のキャップを被り、漆黒のブーツを履いていた。

愛知県豊田市足助町 お釜稲荷 赤鳥居

「神域を示す赤と黒」に関しては以下の記事内《赤と黑の由来》の項目に記事にしてあります。

この大鳥居は地図には「赤鳥居」と表記されている。
赤鳥居の先を見ると、この表参道は一般道路でもあって、鳥居の先は10mも行かないで右にカーブしており、どうやら急な登り道になっているようだ。
鳥居をくぐって、急坂の下に至るも、行く手はS字にカーブしているようで、社殿は見えなかった。
S字カーブを80mあまり登っていくと、右手の丘の上に巨大なお釜が置いてあるのが目に入った。

足助町 お釜稲荷 社頭

巨大なお釜の丘の袖には屋根(矢印の形なのか?)を葺いた板碑が設置されていた。
社号標に墨書きされた1行目「お釜稲荷へ」までは読めたが、2行目は文字が消えかかっていて、読み取れなかった。
「へ」が付いているから、社号標ではなく案内標識なのかもしれない。
その案内標識の坂の上側に手水桶、案内板、ニノ鳥居が並んでいる。
案内板『お釜稲荷』は足助町文化財保護委員会の製作したもので、以下のようにあった。

足助領主本多家(天和元年=1681〜)の守護神であった御陣屋稲荷を昭和30年にお釜稲荷としてここにまつりました。伝説によれば平八老人の一升釜一と炊きでどれだけ多くの人でも用が足せたといいます。祠をまつる釜は直径2mでこの大きさの釜は大へん珍らしいといわれております。

お釜稲荷 案内板

二ノ鳥居の上には三ノ鳥居と社殿が見えている。

二ノ鳥居からは3mほどの高さの石垣上に向かう石段が立ち上がり、突き当たりで左に折れていた。

足助町 お釜稲荷 二ノ鳥居

二ノ鳥居をくぐって石段を登ると、左手の石段上に三ノ鳥居が設置されており、三ノ鳥居のすぐ先に銅板葺切妻造棟入で白壁に赤い木部を持つ社殿が立ち上がっていた。

足助町 お釜稲荷 三ノ鳥居/社殿

軒下に掲示された焦げ茶色の扁額には金箔押し文字で「足助稲荷大明社」とある。
これが正式名称のようだ。

三ノ鳥居をくぐって社殿前に立つと、畳敷きの殿内には奥に1段上げた板の間があり、赤塗りの机が設置されていて、その上に1斗炊きと思われる口をこちらに向けたお釜が設けられ、お釜の中に足助稲荷大明社が祀られていた。

足助町 お釜稲荷 社殿内 足助稲荷大明社

お釜の口を穴稲荷の穴になぞらえたもののようだ。
欄間からは布筋を垂らした金糸の朽木幕の奥には左右に複数の赤地の巨大な長提灯が下がっている。
その欄間には素木の額にウルトラマリンで「足助稲荷大明神」と書かれているが、これは墨文字にして欲しかった。

殿内の壁には明治期の人物、静岡県浜名郡入出村の山本新蔵の奉納した、お釜稲荷の関わる母親の体験談が額装されて奉納されていた。
達筆で墨文字が薄れている上に長文なので、読み取れる部分だけで推測で補正して下記に紹介してみる。

明治四十年、亡母もんが家庭不和のため二児を連れて実家に戻ろうと浜名湖畔瀬戸までやって来たものの、自分の不運を死ぬことで精算しようと意を決し、愛児たちとともに水中に飛び込もうとしたところ、突然気高い老人が現れて、それを止められた。それで実家のある浜名村大崎まで愛児たちを連れていくことができた。そんなことがあって十六年が過ぎ、母が病気になり、名古屋で入院していたが、家のことが心配で、重病をおして一時退院してバスに乗ったところ、バスは団体客で満員になってしまい、東海道鷺津駅で降りるべきところ、降りることができず、静岡まで乗り越してしまった。母には歩いて戻る体力が無いことから途方に暮れていると、瀬戸海岸で助けられ、忘れたことのない老人が再び現れ、自宅まで送ってくれたという。その数日後、病気が悪化して危篤になったにもかかわらず、母がはっきりと語ったことは、自分はこれまで命を二度救われたが、その老人は足助山稲荷様(お釜稲荷)と言い、私の中にも家のどこにもいらっしゃるのだが、なぜそうなっているのか、まったく心当たりがないとのことだった。母が天命を迎えているとはいえ、残される者たちが、足助山稲荷様に再三助命をお願いすると、「三年」と伝えられたという。一同が今少しの御助命をと、さらに一心に祈ると、「五年」の御助命が申告されたという。その後、母の体は健在となり、お礼参りをするべく、訪ね歩いて山中(足助町虫尾ケ根)に辿り着いた。それから時が過ぎて五年二ヶ月後、母は寿命が尽きて黄泉の人となった。
奇しくも有難いことに三度も母親の命を助けてもらい、足助山稲荷様の御霊験の深さに我々はただ感謝を込めて拝み、ひざまずくものです。

この文からは、なぜ山本新蔵の母親が足助山稲荷様から3度も助けられたのかという理由は解らなかった。
そこに興味があったのだが。

お釜稲荷を降りて、愛車を駐めた真弓橋に戻ると、真弓橋脇から足助川左岸の河川敷に降りられる階段があることに気づいた。
河川敷左岸の遊歩道を下流側100m以内に架かっている、地図には表記のない無名橋までの中間点まで歩いてみた。
上流側の真弓橋に向かって撮影したのが以下の写真だ。

足助町 足助川上流側 真弓橋

対岸の家が並んでいるのが右岸側だが、対岸の家は上の階が例外なく、足助川に突き出る造りになっている。
途中に1ヶ所河川敷に降りる石段が設けてある所が見える。
足助川の水流は真弓橋上から見下ろした時は、ほとんど流れていないように見えたが、ここからみると、流れは遅くなかった。

下流側を見ると、対岸の家並みの状況は変わっていないが、やはり複数ヶ所に河川敷に降りる石段が設けられている。

足助町 足助川下流側 無名橋

そして、すぐ先にはかなり高い場所に色褪せて桃色になったようなスチールの橋脚を持つ無名橋が架かっていた。
地面の高さに架けられた真弓橋と違い、無名橋は住宅の2階の高さに架けられており、かなり高い場所を通っている。
その理由はその無名橋に行ってみようとして判った。
歩行者専用の橋で、左岸の駐車場利用者のための橋のようだ。

愛車に戻り、左岸の号線表記のない道路を使って真弓橋の下流160mあまり架かった足助橋に向かった。

足助橋は真弓橋とは対照的な、コンクリートの親柱と明るい青灰色にペイントされた既製のスチールの欄干を持った、まったく飾りっ気の無い橋だった。
足助橋上から上流側を見ると、右岸側(下記写真左岸)に3階建のようだが立方形ではなく、瓦葺切妻屋根という町家の伝統を持つ、しかし白亜の建物が目についた。

豊田市足助町 足助川 足助橋上流側

調べてみると、井筒亀という日本料理店だった。
2・3階部分はオーナーの住居部分だろうか。
中馬街道側から見ると、井筒亀の右隣は精肉店井筒亀が並んでいる。
日本料理店の方の1階からは足助川の河川敷に降りられるなだらかで広い石段が設けてある。
この部分で川幅は20m未満で、川床の石は少ない。
左岸(上記写真右岸)の高床式の駐車場の下は雑草で覆われている。

足助橋の下流側を見ると、ほぼ正面に、ピラミッドとしての機能を持っていると思われる飯盛山(いいもりやま)がそびえていた。

足助町 足助川 足助橋下流側 飯盛山

すでに以下のレイラインテーマの記事で紹介したように、飯盛山山頂には磐座が存在し、足助八幡宮の奥宮が祀られている。

足助橋下流で足助川は飯盛山にぶつかり、右(西)方向に迂回している。
足助橋下流側の足助川の流れは激しくなっており、飯盛山にぶつかった部分の手前の川床にはおびただしい数の河原石が溜まっているようだ。
右岸側(上記写真右側)に連なっていた足助川を見下ろして楽しむための縁台やベランダはすっかり姿を消し、川沿いの建物も姿が見えなくなっている。
一方、左岸側の河川敷は足助川下流で姿を消している。

足助橋にやって来た号線無しの道路に戻ると、その右角にはすでに記事で紹介した足助庚申を奉った庚申堂が存在した。

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足助川は飯盛山の麓で巴川に合流しているので、終着点は迫っています。

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