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麻生田町大橋遺跡 土偶A 43:伊雜宮と倭姫命の謎

岡崎市竜泉寺町の神明宮から岡崎市内を西北西に向かうと、完全に山岳部を抜け、3.9kmあまりの場所に位置する針崎町 御鍬神社(おくわじんじゃ)に向かいました。両地は桑谷日吉神社(くわがいひえじんじゃ)から利用してきた県道326号線で、ほぼ結ばれていました。

愛知県内レイラインAM
レイラインAM(竜泉寺町 神明宮〜針崎町 御鍬神社)

針崎町 御鍬神社は南北に走るJRの施設の東側20m以内に位置しているが、南側にある路地に面した社頭に立った時にJRの施設を意識するほどの環境ではなかった。

針崎町 御鍬神社

社地を囲う、まだ新しい玉垣沿いに愛車を駐めて社頭に立つと、表参道脇の玉垣内に「村社御鍬神社」と刻まれた社号標。

針崎町 御鍬神社 社頭

社号標から3mほどで社地は1段上っており、その先から参道は石畳になっており、三河では初めて遭遇した石造神明鳥居が、その石畳をまたいでいる。
参道は真っ直ぐ奥に延び、鳥居の奥真正面20mあまりに瓦葺の拝殿が見えている。

鳥居をくぐって拝殿前に至ると、拝殿は切妻造で正面は舞良子(まいらこ)を通した板壁とガラス格子窓を持つ板戸が締め切られていた。

針崎町 御鍬神社 拝殿

縁の下の高い珍しい社殿だが、西830m以内を南北に、平安期にこの地を開いた占部日良麻呂(うらべ ひらまろ)の名を冠したという占部川が流れているものの、間には基本的に洪水地を避けて施線されるJRが通っているので、縁の下が高いのは洪水対策ではなく、土壇が設けられていないための措置と思われる。
拝殿には濡縁が巡らされているが、その木造の縁と似合わないコンクリート造の石段が立ち上がっている。
その最上段に上がって参拝したが、表参道脇に掲示された板書『御鍬神社』には以下のようにあった。

祭神
伊雑大神(いざわのおおかみ) 迦具土神(かぐつちのかみ)
由緒
「針崎」は「墾崎(はりさき)」の意で、矢作川(※やはぎがわ)に臨む古き開墾の地でした。ここに産土神として伊勢神宮を迎えたと言います。その後、江戸時代中期に興った御鍬信仰(伊勢神宮の御田始めの神事に用いた神聖な「忌鍬(いみぐわ)」を戴き祀る事をうけ、御鍬神社神社と呼ばれるようになったとされます。伊雑大神は、三重県磯部(志摩市)鎮座の伊勢神宮別宮の「伊雑宮(いざわのみや)」の祭神で、田畑の守り神であり、漁業や産業の神として篤く信仰されています。
特殊神事として、田畑の害虫駆除・町内の疫病消除を願い、近隣十三ヵ町内の神社を十三年かけて巡る「皇大神宮御田扇祭(おたおうぎまつり)」が行われます。
(平成二十七年岡崎市無形文化財指定)
                                                                 (※=山乃辺 注)

針崎町 御鍬神社 板書

「伊雑大神」とは「(御鍬神社の総本社である)伊雑宮(いざわのみや)の神」という意味であり、伊雑宮の主祭神は「天照坐皇大御神御魂」となっている。
つまり、天照大神(あまてらすおおみかみ)のことである。
一般に「伊雑宮」と表記されるが、正式な漢字は「伊雜宮」である。
もう一柱の迦具土神は『日本書紀』によれば天照大神と同じく、イザナギとイザナミとの間に生まれた神である。
そう、伊雑大神と迦具土神は姉弟の関係ということになる。        

●伊雑宮にまつわる謎

この伊雑大神を祀った伊雑宮には不思議な話が複数存在するが、その一つが、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典『先代旧事本紀大成経』だ。
『先代旧事本紀大成経』は伊雑宮の書庫にあったものを伊雑宮の神職である長野采女(うねめ)が発見した教典とされているのだ。
『先代旧事本紀大成経』には伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなことが書かれているという。
それが本当なら、本来、天照大神は内宮に祀られていたのではなく、伊雑宮にだけ祀られていたことになる。

『先代旧事本紀大成経』には、それ以外にも多くの日本の常識をひっくり返すような内容が書かれていたことから、江戸時代に江戸の版元「戸嶋惣兵衛」より『聖徳太子五憲法』というタイトルで発売され、その内容が短期間で国内中に知れ渡り、『先代旧事本紀大成経』の内容を元にした多くの古史古伝が創作されたとみられている。
それだけではなく、その内容は当時の学者や神職、僧侶にも影響を与えたのだ。
内宮・外宮の神職はこの書の内容について幕府に詮議を求め、天和元年(1681)に幕府は大成経を偽書と断定した。
しかし、『聖徳太子五憲法』は出回り続け、垂加神道などに影響を与えたと言われている。

Wikipediaは『先代旧事本紀大成経』が偽書である根拠として「皇大神宮と伊雑宮は奉斎氏族は別であり、日神祭祀の起源主張には無理がある。」という意見を紹介している。
しかし、『先代旧事本紀大成経』は七十二巻からなる教典であり、神代七代から推古天皇までの歴史と祭祀、副部には卜占・歴制・医学・予言・憲法など広範な内容が記され、神道の教典としての格を備えているという評価がされている。

個人的に気になる内容として、『先代旧事本紀大成経』はニギハヤヒの別名を「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と紹介し、「天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神である」としている。
「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」とは最初のアマテル(天照)からクシタマニギハヤヒ(櫛玉饒速日尊)まで、4名の神代(主に縄文時代)の最高位の人物の名前を列記したもので、歴代のニギハヤヒを列記したものとも解釈できる。
特に記紀には一切登場しないアマテル(天照)は男性であり、アマテラスのモデルとも考えられ、アマテラスの登場しない『ホツマツタヱ』では最重要人物なのだ。
また『先代旧事本紀大成経』はニギハヤヒを物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝えている。

この他にも伊雑宮には御神体がキリストの磔に使用された十字架現物であるという説まであり、青森県では交通表示されている「キリストの墓」の信憑性を補強している。        

時空を御鍬神社境内に戻すと、上記写真にあるように、拝殿の両脇に瓦葺切妻造の対になった建造物が存在した。
拝殿の西脇側から撮影したのが以下の写真だ。

針崎町 御鍬神社 拝殿/回廊/本殿覆屋

拝殿両脇の白壁を持つ建物は本殿覆屋の方まで延びており、回廊であることが判った。
この規模の神社では簡略化されて塀に近い形状になった回廊はよく見るが、ちゃんと四方に柱を持った部屋を持つ回廊が存在する例は初めて遭遇するものだった。
上記MAPで御鍬神社の拝殿が「コノ字形」に表記されているのはそのためだったのだ。
この御鍬神社が伊雑宮という由緒のある神社から勧請されたことが、正規の回廊の建造につながっているのかもしれない。

回廊の妻側の連子窓から中をのぞくと、瓦葺入母屋造平入の本殿覆屋は2mほどの高さの石垣の上に設置され、周囲は玉垣と瓦葺の白壁に囲われていた。

針崎町 御鍬神社 本殿覆屋

本殿の扉は観音開きで、銅の飾り金具で装飾が施されたものだった。

この本殿と三重県志摩市にある伊雑宮を線で結んで、他に何かが線上に存在しないかチェックしてみた。

伊雑宮〜針崎町 御鍬神社

すると伊雑宮のすぐ近くに、針崎町 御鍬神社方向に向かって「倭姫命の旧跡地」と「千田の御池」が並んでいることに気づいた。

伊雑宮〜倭姫命の旧跡地〜千田の御池〜針崎町 御鍬神社

     

●倭姫命

倭姫命(ヤマトヒメ)とは景行天皇の妹で、皇大神宮(神宮内宮)に天照大神を祀った人物だ。
ちなみに甥にあたる日本武尊に草薙剣を与えた人物でもある。
『日本書紀』によれば、大和国の笠縫邑(かさぬいむら:比定地は数多い)に祀られていた天照大神の神体であるヤタノカガミの安置場所を探すために、豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ:倭姫命の叔母)の後を継いだ倭姫命が神体を祀りながら大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢国に辿り着き、神託により神宮内宮を創建したものだ。
倭姫命の旧跡地は神宮内宮を創建する前に居住していたとみられる場所で、もともと皇居内に祀られていたヤタノカガミが各地を巡航した期間は豊鍬入姫命から数えると、ほぼ90年間に渡るという。
千田の御池は倭姫命が引水したとされる池で、祭祀を行うのに必要としたものと思われる。
伊雑宮が神宮内宮から南東に11.3 kmあまりも離れたこの地に祀られたのは倭姫命の居住地が存在したからだろう。
このことは『先代旧事本紀大成経』が当初、伊雑宮にだけ日神(天照大神)が祀られていたとする説の裏づけとして受け取れる。

拝殿の東側に向かうと、千本鳥居が南北に並んでいた。

針崎町 御鍬神社 境内社稲荷社 千本鳥居

千本鳥居をくぐって行くと、鳥居の先に銅版葺神明造の稲荷社が祀られていた。

針崎町 御鍬神社 境内社稲荷社

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伊雑宮には縁が無くて、未だ参拝していませんが、針崎町 御鍬神社は回廊を持つ神社とはいえ、質素で、さほど大きな神社ではありませんでした。


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