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今朝平遺跡 縄文のビーナス 32:奪衣婆は瀬織津姫

愛知県足助町(あすけちょう)の足助神社の南側を東西に通っている国道420号線をはさんだ斜め向かい側には神宮山十王寺が存在するので、420号線を徒歩で渡りました。

愛知県豊田市足助町 神宮山十王寺/飯盛山 太子堂
神宮山十王寺/飯盛山 太子堂
神宮山十王寺/飯盛山 太子堂

神宮山十王寺に山門は無く、国道420号線の歩道に面した北側は解放され、歩道に面した場所に「神宮山十王寺」の比較的新しい寺号標が建てられ、奥に瓦葺入母屋造の本堂が見えている。

愛知県豊田市足助町 神宮山十王寺 寺号標/本堂

ここにも何度かやって来ている。
寺号標が新しいのは、ここが寺院になる前には無住の十王堂だったからだ。
以前の堂号標も境内の東の片隅に残されている。

神宮山十王寺 旧堂号標

十王堂を管理できる住職が現れたものと思われる。

本堂は外から参拝できるようにだろう、戸が少し開けられていた。

神宮山十王寺 本堂内

十王堂だった時にのぞいた時は須弥壇の正面に十王像が並んでいたのだが、現在は本尊として阿弥陀如来が奉られている。
しかし、正面の3つの鴨居には3点の十王に由来する日本画が装飾されていた。
上記写真では判りにくいが、中央の大きな額絵には王座に腰を下ろした閻魔大王が描き込まれている。
かつて須弥壇の中央に奉られていた十王像群は現在は本堂の左側側面に奉られているのだが、その部分は暗くてオートフォーカスでもブレた撮影しかできなかった。

神宮山十王寺 本堂内 十王像群

上記写真左端最上段に位置する像が閻魔王だ。
この閻魔王を始めとした十王像に奪衣婆(だつえば)など4躯の関連像を加えた14躯と鏡・秤の2点が指定文化財となっており、閻魔像の胎内には墨書による「寛永15年(1638年)」の銘があるという。
十王とは道教に由来する閻魔王を中心とした10尊のことで、地獄に落ちた亡者の審判を行う10尊の王のことだが、これらの思想は仏教に習合されたため、例えば地蔵菩薩は閻魔王が姿を変えて、現世に衆生救済のために現れた姿だと解釈されている。
昭和期までは子供たちの悪さを戒めるために「嘘つくと、閻魔に舌を抜かれるぞ」などと言われるのに使われた。
このように日本では十王のうち、閻魔王だけがクローズアップされているが、十王に付随して奉られる奪衣婆もクローズアップされ、この2像が特に大きな像として組み合わされる例が見られる。
奪衣婆とは三途川(さんずのかわ)の川辺で亡者を待ちうけ、亡者の衣類を剥ぎ取る役割の鬼婆のことだが、複数の別名を持つ鬼婆であり、その中の葬頭河婆(そうづかば)という名称は以下のように山姥と呼ばれることのある瀬織津姫から転嫁した名称である可能性がある。

瀬織津姫 SEORITSU
       ↓
     SEOUDU
       ↓
葬頭河婆 SOUDU

十王寺境内の東の端にはコンクリートの基壇上に西向きに、本堂側の右側から小祠(1棟)、石仏(2体)、仏塔(?:3基)が奉られていたが、情報が無いので内容は不明。

神宮山十王寺 小祠/石仏/仏塔(?)

神宮山十王寺から、この部分では南北に流れている巴川を東岸に渡ると、独立峰を持つ飯盛山がそびえている。
飯盛山には3度登っているが、その時に2度、山頂から降ってきた通路の脇に瓦葺宝形造の六角堂が存在した。

愛知県豊田市足助町 飯盛山 太子堂

周囲は楓に取り囲まれている。

太子堂の正面まで下ると、楓に取り囲まれていることから、日当たりはよくなく、湿気から基壇部の石や階段の麓は苔に覆われていた。

飯盛山 太子堂

扉に付けられている小窓から堂内を覗くと、正面奥の須弥壇には2点の聖徳太子孝養像の掛け軸が下がっており、中央の孝養像の前には金色の小さな厨子が奉られ、厨子内には聖徳太子像が納められているようだ。

飯盛山 太子堂堂内 聖徳太子像

孝養像とは16歳の時の聖徳太子が病気になった用明天皇の平癒を祈るため、仏に香を捧げる姿を現したものなので、両手で捧げているのは香の器だ。
聖徳太子の法隆寺建立も用明天皇の病気平癒が目的だったとする説があり、用明天皇の在位期間は2年にも満たず、短命な天皇であった。

厨子内の聖徳太子像を拡大してみると彩色像であり、はっきりしないのだが、烏帽子(えぼし)を被っていない像なので、成人像ではなく、やはり孝養像だと思われた。

飯盛山 太子堂 聖徳太子像

この太子堂に関して、案内板碑『太子堂』には以下のようにある。

この太子堂は、昭和六年(※1931)足助の大工の人々で結成する足助太子講工匠組合が、聖徳太子の恩徳をたたえ建立したもので、太子の尊像が安置してあり、現在も現在も建築業者の信仰を集めている。六角堂の様式は、法隆寺夢殿にちなんだものといわれる。足助の太子信仰のお切りは不明であるが、江戸時代末期には毎年2月と9月に例祭を行なっており、太子堂建立当時は毎月22日に太子講が開かれている。〜以下可読性が無く不明〜        
                           (※=山乃辺 注)

『太子堂』案内

なぜ、大工の人々の組合が聖徳太子を祀ったのか。
大工にとって必須の道具として差し金(さしがね:曲尺)が存在する。
差し金は水平線・垂直線・角度・曲線を下書きするための道具であり、大陸から聖徳太子が日本に持ち込んだものと伝えられていることから、太子が建築の神として崇敬されるようになり、室町時代末期ころから、太子の命日とされている2月22日が「太子講」の日と定められ、講(こう)が行われるようになっている。
「講」とは「宗教的・経済的な共同団体組織」を意味することと、聖徳太子がソロモン神殿の存在した中近東の文化と関係が深いこと、差し金を持ち込んだとされることなどから、聖徳太子を日本最初のフリー・メイソンとするトンデモ説も存在する。
ただ、実際にフリー・メイソンのマークには、以下のように差し金が使用されている。

フリーメイソン・シンボルマーク 差し金

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我がカミさんは東京タワーの隣にあるフリーメイソンの事務所で行われたファッションショーに招待されて、事務所に入ったことがあります。その建物ではさまざまなイベントが行われるスペースがあるそうです。ファッションショーを開いたイスラエルの女性デザイナーと関わりがあったことから招待されたのですが、特に変わったことはなく、今年のWORKMANの秋冬物の展示会より少し小さめな会場だったようです。

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