見出し画像

今朝平遺跡 縄文のビーナス 73:玄室に降り立つ妖精!?

愛知県豊田市平戸橋町の馬場瀬神社(まばせじんじゃ)は馬場瀬古墳群にやって来たことで、その存在に気づきましたが、馬場瀬古墳群は8基の古墳からなる古墳群で、基本的に通路の北から「一号墳」、袋小路になっている通路の最奧が「八号墳」となっていました。

愛知県豊田市平戸橋町 馬場瀬古墳群
豊田市平戸橋町 馬場瀬古墳群

馬場瀬古墳群の一号墳跡は現在は住宅になっているようで、消失している。
二号墳は2011年8月に馬場瀬神社に参拝した際、下記写真のように馬場瀬神社境内社御岳社の基壇の裏面に地面が盛り上がっている場所があり、その脇に「馬場瀬 二号墳」の立て札があることで気づいた。

愛知県豊田市平戸橋町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 二号墳

馬場瀬 二号墳から馬場瀬神社と公民館の間にある駐車スペースに戻り、徒歩で公民館の東脇から南南東に伸びる無舗装の通路を奥に向かった。
曲がりくねった通路を80mほど歩くと、途中、通路の東沿いに馬場瀬 三号墳があったが、そこも雑草に覆われた地面が少し盛り上がっているのみで、潅木が3本ほど生えていた。
立て札が無ければ気づかずに通り過ぎたかもしれない。
三号墳前から南に向かうと40m以内の西側に三号墳とほとんど同じ状態の四号墳。
四号墳前には四〜八号墳の配置図の案内板が立てられていた。
どうも、このあたりが平戸橋町と勘八町の町境のようだ。
案内図にはさらに40m以内に「案内板」の表示があり、そこに「入り口→」の記入がある。

その「入り口」に向かうと、林の入り口に「馬場瀬古墳群」と刻まれた半円形の石碑が巨大な基壇上に設置されていた。

豊田市勘八町 馬場瀬古墳群石碑

写真の背景が暗いのは明るい銅板に絞り値が寄っているせいだ。
石碑には豊田市の製作した古墳地図と、以下の案内書の刻まれた銅板がはめ込まれていた。

馬場瀬古墳群は、矢作川 左岸の段丘に築かれ、市域では比較的大型の8基の円墳から成る。古墳群は7基の古墳が現存して、群集墳の形態を良く残している。 築造は、古墳時代後期7世紀頃と思われる。この古墳群の中で8号墳は最も良く原形をとどめ、市内最大級の横穴石室が残存している。

馬場瀬古墳群石碑 案内プレート

石碑の背後は開けており、4基の円墳らしき盛り上がりがあり、痩せた中木が林立していた。

豊田市勘八町 馬場瀬古墳群

メインの通路は南東に向かっているので、そっちに向かうと、「馬場瀬 七号墳」の立て札のある円墳があった。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 七号墳/馬場瀬 八号墳

ここまでで、初めて円墳であることが明快に判る古墳だ。
墳頂には石が並んでいる。
石室の天井石が露出しているようだ。
七号墳の裾を取り巻くように中木がポツンポツンと点在している。
上記写真七号墳の右奥には立派な円弧を描く墳頂を持つ、八号墳と思われる円墳が見えている。

その円墳に向かうと、やはり馬場瀬 八号墳だった。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳

上記写真は西側から八号墳を見たところだが、円墳というよりは前方後円墳のように円墳部分から右手(南)に墳丘が延びているように見えるが、円墳の墳丘の土が崩れて、たまたまこういう形になったのかもしれないと思った。
となると、現在の見かけの直系の1.5倍くらいのサイズの円墳だったのかもしれない。
天井石らしき石が露出しているから、墳頂ももっと高かったのだろう。
ヘッダー写真は八号墳の露出している天井石を西側から見たもの。
巨石のうち3コは岡崎御影(花崗岩)のようだ。
もう一つの最大の石も花崗岩のようだ。

下記写真は北側から八号墳の露出している天井石を見たもの。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳 天井石と墳頂部

土はかなり黒いが、腐葉土だからかもしれない。
それにしても、見えるだけで4コもある、こんな大きな石を麓から15mも登るここに、よく運び上げたものだ。
案内書には「天井石4枚」とあるので、天井石はすべて残っているようだ。

逆側の南に回ってみると、前方後円墳のように見えた理由が解った。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳 墓道〜玄門

円墳部の石室入り口から南に延びる墓道の左右両側に赤土の土手が延びており、幅の広いU字溝のようになっていたのだ。
やって来た北西方向の地表から見た八号墳はさほど大きな円墳には見えなかったのだが、墓道側から見る石門は天地左右とも2m以上ありそうで、もし自宅の庭にこれがあるなら、そのまま軽四輪車の車庫に流用できそうだった。
墓道の先の羨道(せんどう:石室内の最初の通路部分)は完全に墳墓の土と天井石が取り除かれており、左手に1コだけ袖石だったのではないかと思われる半月型の巨石が残っている。
ということは、その奥に見える正方形の暗い穴は玄門(最奥の石室の入り口)だと思われるのだが、楣石(まぐさいし:門の天井石)と、それを左右で支えている袖石は青みがかった石で、こちら側が完全に平らに加工されており、周囲を取り囲む赤土とのコントラストもあって、大きく美しい。
それも、羨道が完全に残っていれば、この美しさの大部分は隠れている部分なのだ。
馬場瀬古墳群は墳墓の数は多いものの、質素な墳墓ばかりに思えたのが、最奥の八号墳で大どんでん返しを喰らった感じだ。

羨道入り口の左側だけに残っている袖石の直前に立つと、羨道の側壁下部には様々な大きさの石を切石積にされた側石が残っていたが、それはやはり壁として完全に平らに加工されており、この墳墓の被葬者がよほど民に敬愛された人物であることが感じさせられた。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳 羨道〜玄門

いよいよ、玄室に足を踏み入れた。

勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳 玄室内 オーブ
勘八町 馬場瀬古墳群 馬場瀬 八号墳 玄室内 不明の発光体

上記2カットの写真はストロボは使用しないで撮影し、Photoshopで明るさを調整したものだ。
奥壁は高さ2.2m以上の巨石2枚を平らに加工して合わせたものだった。
側面は割石積になっている。
奥壁直前には男形と思える立石があったが、案内書はそれに触れていなかった。
上記2カットの写真は連続して撮影したもので、玄室内で撮影したのは、この2カットのみだ。
1カット目の写真は空中に、一般に「オーブ」と呼ばれるものが浮かんでおり、砂埃や水滴の舞う場所などで写真に写ることのあるものだ。
肉眼ではまったく気づいていなかったもので、オーブ部分を拡大したものも表示した。
問題は2カット目の写真だ。
オーブは消えており、代わりに手前の饅頭型の小石の頭頂部に何か光るものが乗っている。
これも肉眼では認識していなかったものだ。
拡大してみると「熊が落としていった奥歯かよ」と思うような形態の白いモノで、初めて見るモノだった。
1カット目の写真の同じ場所を拡大してみたが、何も存在していなかった。
1カット目の写真と2カット目の写真の推移から、「オーブが饅頭石の上に降り立つと羽根を広げた妖精だった」というロマンチックな体験を空想した。

教育委員会の製作した墳墓脇の案内板『馬場瀬 8号墳』には以下のようにあった。

馬場瀬8号墳は直径およそ18m、高さ3m以上の円墳で、北側には周溝と呼ばれる墳丘のすそを巡る溝のあとが残っています。横穴式石室は古くから入口が開いており、昭和49年に整備を目的とした石室の発掘調査が行われました。
 石室は奥から、遺体を入れた棺を納める玄室、その手前の羨道、墓道状の素掘りの溝から構成されています。最大幅 2.1mの玄室には天井石4枚がかかり、最奥部には奥壁と呼ばれる2枚の巨石 (高さ2.2-2.4m)があります。羨道とあわせると石室全長は 7.1m に及び、市内でも規模の大きな石室です。
 石室内部からは、死者に供えた須恵器・土師器と呼ばれる土器や鉄鏃(やじり)、耳飾りなどが出土しました。出土品の特徴から、古墳が築造された年代は、7世紀前半と考えられます。
 この古墳に埋葬された人物は、三河湾からさかのぼる矢作川の水路と、信州につながる陸路との中継点である平戸橋周辺に勢力を持つ豪族の一人であったと推定されています。

『馬場瀬 8号墳』平成20年12月 豊田市教育委員会

◼️◼️◼️◼️
不思議な写真が撮影されたものの、現場ではまったく気がついていなかったので、一緒に行った息子は他の墳墓を見ていて、玄室には入っていません。この出来事があってから、その後も平戸橋経由で足助町に向かう時には、つい馬場瀬古墳群に寄ってしまっていたのですが、豊田スタジアム周辺の道路が整備されたことに気づいて以降は平戸橋経由で足助町に向かうコースは取らなくなってしまい、馬場瀬古墳群にも寄ることは無くなってしまいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?